(↑の項目に続く)

 

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☆ひとりごと
17.1.13 絵画館

 たまたま訪れる機会を得た。
 場所は、JR信濃町駅のすぐ近く。明治神宮外苑にある。
 知識としてはここまでで、以下のことは初めて知った。
 正確には聖徳記念絵画館という。展示されている絵画は明治天皇の御降誕(ご誕生)から大葬(ご葬儀)までの情景を史実に忠実に、という方針のもとに描かれている。歴史画ともいうようだ。
 その数80点。大きさは全て約3メートル四方。これが年代順にずらーっと並べられている。
 日本画と油絵が半々づつであったが、日本画が大変美しかった。明治天皇(または昭憲皇太后)を中心にして描いてあるのだが、必ず木々や花(桜)や霞などが添えられて描かれており、それがまた美しい。
 そして、自分のおじいさんの絵を見ているようなそんな感覚になってしまった。

 教科書(新しい歴史教科書)の挿絵で使われている絵が多数あった。たしかに歴史教科書に最適の絵である。
 観覧所要時間約1時間。料金500円でした。

☆ひとりごと
17.1.5 日本に自信を持とう

 最初に書いておかねばならないが、インド洋での大津波は大変悲惨な状況になっている。まさに人類史上最悪の災害である。20万にもなろうとする亡くなられた方々がおられる。ご冥福を心からお祈りする。

 さて、今日付けの産経朝刊。
 今般のインド洋大津波への各国の支援の状況が一覧表にして第1面に載っている。
 内容を見ると日本とアメリカがだんとつである。
 1 日本5億ドル。緊急援助隊120人、護衛艦3隻派遣+800人規模準備中。
 2 米国3.5億ドル。艦船等多数、人員1万2600人
 3 ノルウエー3.44億ドル。
 4 カナダ0.66億ドル。輸送機2、災害救助部隊を派遣。
 〜13位は、同様。

 この数字などを皆さんどう見ますか。日本の経済は苦しい。でも、まだこれだけのことができる。そしてこれを負担する我々国民も、一人当たりいくらになるか解らないが5億ドルは惜しくない。生きたお金である。

 一方、アジアの盟主を自認なさっている中国は、とみると、「0.6億ドル。DNA専門家派遣、医療チーム待機中。」だそうである。人民解放軍は170万の陸上兵力を擁しているが、1兵も出していない。(実は、出せないという事情もある。被災国から全く信用されておらず歓迎されていないからだ。)
 また、中国のインターネットには「日本が大津波で呑み込まれてしまえば良かった」など他、例の品のない書き込みが多数あっているそうだ。

 中国は大人(たいじん)の国だそうだが、上の状況を見るとどうも違う。
 それに対して、上の数字を見るだけでも我々は日本の力にもっと自信を持ってよいのではないか。少なくとも、中国などに腰を低くする必要なんかない。そしてあの北朝鮮などは問題外だ。こんな国に馬鹿にされているのだ。もっと自覚しよう。

 だが、それはそれで置いて、被災された方々には上のような邪心は捨て去り心からの手を差し伸べたいと思う。
 まもなく自衛隊が派遣される。参加する自衛官諸君の健闘を心から祈りたい。

☆ひとりごと
17.1.2一般参賀/大御心(おおみこころ)

 当家で、昨年から恒例になりかけている一般参賀に出かけた。
 夫婦と娘2人の計4人。
 暑いくらいの快晴。晴れ晴れとした気持ちもあってか、厳重な警戒もあまり気にならない。
 陛下はじめ皇族の方々は午前3回午後4回お出ましになる。お勤めではあるが、一種独特の一体感がそういうことを感じさせない。実際、陛下は義務と考えておられるはずはない。
 お出ましになると、日の丸がいっせいに打ち振られ、万歳の声があちこちから海辺の波の音のように繰り返し繰り返し、沸き起こる。そして、陛下のお言葉が始まるや、直ちに静寂が訪れ、皆は耳をそばだてる。多分7回ともおなじであろうお言葉が終わると、一瞬の間をおいて、再び旗が打ち振られ、万歳の声が沸き起こる。
 陛下と皇族の方々は、右に左にゆっくりとお体を向けられにこやかにお手をふられる。その方向にあたる人たちは、遠めで解りはしないのだが、目と目が向き合ってご挨拶をしているような錯覚にとらわれる。このとき、一切の雑念が取り払われ、ありがたさが胸中を占める。

 この不思議な気持ちはなんだろう。我々日本人の(おそらく大多数の家の)総本家の長に対する感覚と私は思っている。そのようなよりどころを感じ取れるか否かが、日本人あるいは日本国民としてのバックボーンを形成し得るか否かに関わってくるように思える。結局、人間にはなんらかのよりどころが必要であって、キリスト教ではキリストそのもの、日本では天皇、ということになるのではなかろうか。
 昨今の種々の事件の根底に存在している(と私が思う)事件当事者の心の不安定さは、このよりどころがはっきり持てなくて、つまり、心の基準になるようなものを持てなくて、自分の居所が分からない。ために、情緒が不安定になる、ということではないだろうか。

 関連して、天皇家の国民に対するお気持ちのスタンスを良くあらわす話がある。
(以下引用)
 さきの新潟県中越地震では、海上保安庁も地震直後から被災地での状況調査・救助活動にあたった。
 天皇皇后両陛下が被災地のお見舞いに向かわれ、その行程中、防災担当者を激励され、その防災担当者の列には海上保安庁新潟航空基地長も参列し、
 天皇陛下から
 「ありがとうございました。
職員の皆さまは元気でやっておられますか」と、
 また、皇后陛下から
 「普段は山の中を飛ばれていないので、大変だったでしょう」

それぞれお声をかけられたそうです。
 新潟基地長は「“ご苦労様”ではなく“ありがとう”であったのが印象的。両陛下は被災者や国民の心を我々に伝えられていると思った」とコメントしておりました。
 天皇陛下のお言葉もさることながら、私は皇后陛下のお言葉が印象深く、感動しております。お付きの方などが、事細かにご説明差し上げたのでしょうか?
 私は、陛下が参列者に海上保安庁の名を見つけられたときに、あるいは、いつかのタイミングで海上保安庁が航空機を出動させた、ということをお知りになったときにすべてをご理解されたのではないかと思います。
 通り一遍の“よくがんばった、ご苦労であった”というような激励が不要であるとまではもちろん言いませんが、受ける側のことをどれだけ理解して発された言葉かどうか、ということは、受ける側の印象には大きく影響します。
 説明があったにせよ、なかったにせよ、そこにお考えが及び,お言葉にされる、そのことそのものが素晴らしく、また、ありがたいものです。
 友人の言葉を借りれば、「他人を慮るということがどういうことか、例示するのにもっともよい例だ」ということでしたが、まったく同感です。
 これ以上ないほど、相手を慮る両陛下からにじみ出る優しさ、復興への活力へつながる元気づけ、勇気づけは、筆舌に尽くせぬものがあるのでしょう。
 両陛下のお見舞い、激励から、お見舞い、激励のその効果と士気の維持、高揚のそれぞれの関連性について、それより何より、相手を慮るということがいかなるものか、考えさせられた一件でした。
(引用終わり)

 陛下は、国民の不幸は我が家の出来事とのお考えである。他人事ではないのである。常にそこからの発想であられる。
 教育勅語にも終戦の詔勅にも、「自分も皆と共に頑張る」との趣旨のお言葉が入っている。家族なのである。

 日本人としての、日本国民としてのよりどころを持つ我々はいかに幸せか。

 頭に浮かぶ一首。 
 なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
          (西行法師が伊勢神宮を参拝されて詠った歌とされています)

☆ひとりごと
16.11.29 櫻井よし子講演会
 演題;「この国のかたち」、場所;グランドヒル市ヶ谷。
 櫻井さんご本人を初めて見る。第一印象は、妖艶。オーラがすごい。
 
 今、日本は問題山積である。しかし、「問題は、どの国こもある。米国にもあるし中国などはその最たる状態である。」。ただし、日本には、問題解決能力が大変に落ちてきている。問題解決のための方程式は建て得ても、それを誠実に解いていく・対応していっているのだろうか。この点こそ問題視しなくてはならない、と。
 卑近な例が、先般の中国原潜領海侵犯事案である。
 5時58分に領海侵犯が開始されたが、官邸に情報が行ったのが8時○分。そして海上警備行動が発令されたのが8時40分。情報は途中スムーズに首相にたどり着かず、前官房長官の福田さんに聞こうということになった。福田さんは「あまり騒ぐな」といったそうである。(これは、その筋、複数から聞いたのでまちかいないそうだ。)
 
 そうだったのか、先般の金正男の時の田中真紀子外相と同じではないか。中国に対するおもねりの心情が、要職にある与党政治家に根強くはびこっている。異常だ。

 櫻井さんは続ける。
 1972年日中平和友好条約締結以来ODAは6兆円になんなんとする。
 この日中平和友好条約締結に際しても、我が国の対応は定見・戦略がなかった。ニクソンがキッシンジャーを使って行った頭ごなしの外交に過敏に反応した田中・大平コンビは、直ちに、こけつまろびつの状態で中国訪問をし、すぐに調印。一方のアメリカは、じっくりと構え、国交樹立は7年後の1979であった。
 この差。
 アメリカも中国に対するシンパシーが強いが、腰を据えるべきところはちゃんと腰を据える。
 
 1992年中国は領海法を制定。海洋国家として発展せんものとの宣言。
 同年、劇的なことが行われる。
 天皇訪中である。
 当時、中国は天安門事件の後で各国から経済制裁を受け、苦しい状況であった。このような中、橋本龍太郎をトップにしたチャイナスクールの面々がこれを(結果的に)救うべく奔走した。
 ここで櫻井女史は、中国官僚(女性、公安関係)と極めて親密になった橋本氏をこう切り捨てる。
 「骨の髄から腐ったヤカラ」(あの美しい顔が一瞬恐ろしい形相になった!)
 天皇訪中に関連して前外相センキシンは回顧録でこう書いていると言う。
 「1992の天皇訪中は各国の制裁に風穴を開けることになり本当に良かった。(中国の国益に沿った。)」と。

 さて、1972の日中平和条約締結に際し、朝日新聞は広岡社長の論文を第1面に掲げた。文中、曰く「まるで夢のようとしか言いようがない」と。
 つまり、国交回復させていただいたの心情。異常なシンパシー。

 かっては違った、と櫻井さんは続ける。
 かってとは、聖徳太子以来である。国際社会の力学をしっかりと見据え大国の隋を揺さぶる。高句麗と戦っていた隋の弱みを見ながら「日出る国の天子・・・・」の書簡。
 ところが今完全に位負けしている。
 これは、戦後の東京裁判史観と経済一辺倒の生き方にどっぷり漬かった我々の責任だ。キッパリと目覚めなければならないのに、指導的立場にある政治家がこの体たらく。
 我々には、誇るべき歴史がある。先の聖徳太子の例しかり。平安時代の紫式部清少納言の文藝の時代、豊臣秀吉の明国出兵にしろ、当時の人口は1200〜1600万人の中を30万の将兵を一挙に動かし得た。(ちなみに現在1億2000万に対して自衛隊24万)
 誇るべき歴史を知るに好著あり。「ゆきし世の面影(外国人が見た日本の姿)/渡辺京二」イギリスの女性旅行家イザベラ・バードはイギリス(当時ビクトリア王朝で世界の人口の3/4がイギリス領に属す)は負けた、と書く。
 まさに、我に誇るべき歴史あり。

 櫻井さんのひとつのシナリオ。
 中国が金正日を倒して国民を懐柔する。左傾化している韓国は文句は言わない。その他の国も文句を言うまい。これは日清戦争の状況と同じだ。

 確かに中国は賢い、かつ現実的である。しっかりした態度で対応すれば、彼は変わる。
 中国に問題があるのではなく、日本にも問題がある。鏡を見るのと同じなのだ。

 所見;
 予定の1時間30分ピッタリに講演は終了しました。
 迫力、内容、容姿・・・すごい1時間半でした。
 今混迷の日本。政治家までがおかしくなっています。その原因はマッカーサーに代表されるアメリカが東京裁判史観という形で我々に押し付けたことにあります。しかし、戦後60年。今なお、そこから抜け出せない日本自身にも大いに責任があります。
 「アメリカの鏡日本」という好著がありますが、この講演のなかでも櫻井さんは中国との関係を「日本の鏡中国」と喝破されております。
 アメリカのせいにするのは簡単ですが、結局、国際関係は相互の影響力のもとにあるわけなのですから、己についても自省する必要があるでしょう。ただ、そう言うと日本人はもともと思いやりが深いですから、過剰に自省してしまいます。
 私は、現情勢では「オレは悪くない。アメリカ、中国が悪い」ぐらいの気持ちが必要と思います。そのためには、まず、この誇るべき歴史を知るべきです。40、50台には効き目が薄いでしょうから、今の学生に対して歴史教育の強化を図るべきです。

 

☆ひとりごと
16.11.20 北への制裁

  日朝実務者協議は、とんだ茶番劇になりそうだ。
 捏造写真などが取りざたされている。
 そして、皆さんおっしゃる。
 「経済制裁だ。」
 
 しかし、北は足元を見ている。
 第一、首相が「良く検討して・・・」などとふにゃふにゃ言い続けている。
 第二、日本は根性なし、と見ている。
 
 だから、仮に経済制裁が発動されたら、恫喝が始まる。
 テポどんをガチャガチャ言わせて、火の海にするぞ、というのだろう。
 ひょっとすると、またしてもどこかの送電線鉄塔がぐらぐらになるかもしれない。
 関係者が月の無い夜に怪我をするかもしれない。
 地下鉄に原因不明の激臭がするかもしれない。

 これらのいわば実力行使に日本人は耐えれるだろうか。
 ここで求められるのは、最後には自衛隊を使うぞ、という気概だ。
 そう、残念ながら今の国際社会では、最後は「力」なのだ。
 それを避けてきたツケをここにきて泣き顔で払うのか、現実の国際社会にあって大人としての態勢整備に取り掛かるのか。
 
 前者になりそうだなぁ。

 そういえば、新しい防衛計画の大綱。
 相変わらず、ちまちまとしている。いや、揶揄しているのではありません。
 現憲法という枠の中では、こうならざるを得ない。しかし、そうと認識して作業されているのか、当然この程度との認識で作業されいるのか。その差は大きい。

 はなしが飛ぶが、自民党から新しい憲法の案が出てきた。
 女帝のことをことさらに記したり、へんなところもあるが、自衛軍の明記や戒厳令的(非常事態的)発想が出ているのは良い。フォローしよう。

 

☆ひとりごと
16.11.20 日本を見直したことを撤回します

  11月10日に「少し日本を見直した」のだが、撤回します。
 本日付けの産経新聞によると次のようなていたらくのようですな。

1 「北朝鮮との交渉、実は苦戦」
  平壌で行われた日朝実務者協議、政府の内部資料によると、北側は高圧的に拉致問題の幕引きと国交正常化交渉の再開を迫っているのに対して日本側は終始防戦の模様。それなのに「北朝鮮なりに努力が見られた」などと言っている!藪中局長は田中前局長と違ってある程度信頼できるかと思ったが、同じ穴に棲息されているように思えるね。
 資料によると、
 9日
 北「拉致を認めないという選択もあったが、あえてそれを認めたんだぞ。そこのところを日本は認識しなければならない。そうでなければ、この問題は解決しない。お互いの協力が必要だ(要旨)」
 藪中局長「ご発言に感謝する。お話を注意深く聞いた(新聞原文のまま)」
 
 10日
 北「相手を刺激したり譲歩を強要する事はあってはならない。拉致問題が課題としては残っているが、とにかく国交正常化へ向けて進展できるようにしよう。国交正常化が最優先課題だ。」
 藪中局長「今回きっちりした調査結果がないと日朝関係にとって厳しい状況になる。今回はぜひ、きちんとした結果を持って帰りたい。」

 唖然。
 拉致という犯罪を認めている犯罪者に対して言う言葉はただ一つ。
 「四の五の言わずに、だまって返せ。さもなくば、世界に働きかけて必ず締め上げる。」だ。
 外務省は全く間違っている。
 正しい事をそのまま言うのになににはばかる事があろうか。
 政府、外務省は国交正常化を至上命題としている。
 明らかに、間違っている。

 今日のテレビで、拉致被害者家族の増元さんが見事なコメントを披瀝。
 「国交正常化なんておかしい。両国とも変な国なのに」
 あはははは。然り然り。笑った。

2 「原潜侵犯に明確な謝罪なし」

  町村外相は訪問先のチリで中国の李肇星外相と会談。
 李氏は遺憾の意を表するとともに再発防止に努めることを約束したそうだが、日本側が求めていた明確な謝罪はなかった。どころか、小泉首相の靖国参拝中止を求めたそうだ。
 そしてこの場では、両者によってAPEC首脳会議の場における胡錦濤との首脳会談開催を正式に確認したそうだ。また、ご丁寧に台湾問題も中国の立場に対する理解が求められた。
 靖国問題については、首相が常に強く自己の考えを明らかにしている事から、町村外相も、否の旨で応じている。
 しかし、このやり取りの流れには、遠慮が感じられるし、これまた「日中友好」が至上命題として捉えられているように思える。
 なんなんだ、これは。
 首脳会談はできないなら出来ないで良い。その出来ない事情を明確にしておいて、世界にそれを示し続ければよいのだ。
 中国は、領海侵犯をしても誠実な対応をしていない。
 中国は、靖国参拝という純粋な国内問題に対して、日中平和友好条約に謳われた「相互内政不干渉」に反して、内政干渉をしている。
 これらを明確に言い続けるべきだ。

 まったく、もう。困った隣人どもだ。

 

☆ひとりごと
16.11.19 日台は生命共同体

  本日の産経新聞のコラムから、です。
 今回の中越地震に対する台湾の関心は非常に高いそうだ。(以下概要引用)
 台湾の人々は、1999年9月21日の台湾大地震の際に、真っ先に救援隊を送ってくれたのが「日本」であったことを、だれもが忘れていないからだそうだ。
  着任早々の陳鴻基・台湾駐日副代表は、地震発生の3日後には新潟県庁を訪れ義援金を手渡した。海外の公的機関が新潟県を訪れたのは台湾が初めてとのこと。
 台湾の一般の人々の草の根募金も衰えを知らないという。義援金を送ったツアーガイドの楊春霖さんの言、「SARSの時も日本人は台湾人を助けてくれた。日台はいわば”生命共同体”でしょうか」と。
 外交関係はなくとも人と人の心はつながっている。台湾に「情け」あり。(引用終)
 
 台湾との正式な国交は、いまのところ無い。中共とは国交があり、そこに向かっては「一つの中国であることを理解する?(つまり、台湾はシカトしようぜ)」という言い方をしている。
 なんか、おかしい。
 政治的経済的にも共通の価値を有し、かつ心情的にも上記のような思いを有する台湾には冷たく、尊大なだけでまったく「心」のない中共には媚を売り、ODAまで渡しているこの倒錯。経済発展の擬態に惑わされ拝金主義に陥ったかのような日本。「心」のない経済はいづれ崩壊する。経済は数値に基づく理論ではない、と誰かが言っていたが、血迷った人にはわからないのだろう。靖国を売るなどとんでもない話なのだがね。

 

☆ひとりごと
16.11.14

区処する (この言葉に覚えのある方のみ、どうぞ)

 以前、私の所属する部署の長が使用された言葉です。その意義についてずっと気になっていましたが、この度その語源が解りました。
 雑誌正論2004-9の366頁の「編集者へ・編集者から」の欄における富岡市の北村秋馬氏72歳の投稿です。以下、引用させていただきます。

 ※引用開始※
 「区処」と「指揮」、文字はたったの二字であるがその意味には大きな相違がある。それが関東軍と連合艦隊の相違であり、ひいては陸軍と海軍の相違といえよう。

 関東軍司令部条例は大正八年に制定された。その第2条に「関東軍司令官は軍政および人事に関しては陸軍大臣、作戦動員計画については参謀総長、教育については教育総監の区処を受く」とある。
 これと同じような条例が海軍にもある。連合艦隊司令部条例である。第2条に「連合艦隊司令長官は、海軍大臣、軍令部総長の指揮を受く」となっている。

 「区処」とは区分けして処置するという意味で、指揮権が存在しない。関東軍司令官は中央の統制下に置かれていないことになる。
 

 陸軍と海軍の相違は、条例の制定に当たった山県有朋と山本権兵衛の相違でもあった。
 日本海軍の組織を創始した山本権兵衛は、日清、日露の両戦役のとき、連合艦隊を組織する歳に、司令官の独断専行を嫌って強く戒めた。
 「兵は凶器である。ことが外国に及ぶとき、その政略、軍縮を決定するのは中央であて、出先指揮官は戦術だけした任せられない。万一出先指揮官が戦術眼のみで外国とことを構えるような場合、国は危機に瀕する」
 これが山本権兵衛の信条であった。

 これに対し、陸軍の創始者である山県有朋は国家的大局観に乏しかった。彼は陸軍の権限拡大に終始した感がある。初めての外地駐留軍(関東軍)を設置するに当たり、海軍以上の権限を獲得するのが彼の執念でもあった。その執念が、指揮という表現を区処に変更したと伝えられている。

 平時は何等の差し障りもないが、一旦緩急の場合(例えば満州事変)には大きな国際問題となる。陸軍大臣、参謀総長に指揮権がないから、出先の駐留軍(関東軍)の暴走、独断専行を咎める権限はない。その権限を持つのは天皇のみである。
 しかしながら天応は、憲法の定めに拠る輔弼者(国務大臣)の進言がなければ命令が下せない。
この場合の輔弼者は関東軍司令官となる。関東軍司令官は、陸軍大臣、参謀総長と同等の権限を持つものと解釈される。しいて陸軍大臣、参謀総長が、天皇の委任命令として関東軍司令官に対して指揮権を発動すれば、それは「統帥権の干犯」に繋がる。
 軍が金科玉条とすると統帥権に、軍自身が縛られるという皮肉な結果になった。
 「区処」と「指揮」の差が、満州事変、支那事変、ノモンハン事件へと発展していくのである。
 ※引用終わり※

 かって私のいた部署内に、あらたな組織が作られる際、その組織の任務として「・・を区処する」という文言が使用されました。その意味は、本来の意味である「区分けして処置する」ということだったと思いますが、当時の長は相当に見識の高い方だったので、なにか含みがあったのかも知れません。
 約20年ぶりで言葉の由来が解りました。

☆ひとりごと
16.11.10 少し見直した日本

  中国の春暁ガス田開発に対抗して、日本が少し攻勢にでた。
 この10月の日中局長級協議において、EEZの範囲について、これまでの中間線論を放棄して200マイルを主張したと言う。
  外務省アジア大洋州局もやっと腰を上げだした。残念ながら、自らの意思によるものでなく、北朝鮮問題と同じく世論に押されての姿が情けないが、それでも良い。
 外務省、この調子で行け。拉致問題も負けるな。

 しかし、中国はメンツの国。ただでは引っ込むまい。何らかの力を行使してくるはずだ。
 実は、この切羽で頼りになるのが軍事力なのだが、日本はこの一日のために100年を掛けてこなかった。従って多少のツケは払わねばならないかもしれない。
 しかし、我慢比べである。我には、正義と世界の世論が味方する。
 外務省頑張れ。

 その2
 領海侵犯の中国潜水艦に対して、「海上における警備行動」が発令された。
 防衛庁長官は総理の承認を得て、中島自衛艦隊司令官に命令を発した。
 法整備は完全とはいえない。しかし、その不完全な法令の枠の中で策定した手順に従って整斉と処置がされているはずだ。その手順はこれまでに海上自衛隊演習などで訓練をしている。
 自衛隊の存在意義がここに発揮される。
 そして、これを機会に法整備が行われて欲しい。
 列国と同様な領海警備法の制定である。

 一方、残念なことが一件。
 中国の潜水艦の脅威について、この9月に米軍資料を翻訳し、海上自衛隊の部内紙に投稿したのだが、予定の11月号に掲載されなかった。良いタイミングだったのになぁ。翻訳まずかったのかしら。(後記;著者の了解を得るのに時間がかかったとの由、にて、1月号に掲載の予定だそうです。)

☆ひとりごと
16.11.9 歪んだ自衛隊観

日本時間の本朝未明、米軍とイラク軍はファルージャの武装勢力に対する大規模な攻撃を開始した。
 これについてのテレビ報道番組をかいま見た。その所感を以下に。

1 テレビの画像では、一大銃撃戦という様相である。
  ここで注目すべきはこのような本格的な銃撃戦を行う対抗勢力が存在すると言う事である。
  これらは、米軍に対抗せんとするフセインと基を一にした勢力である。あの卑劣なるテロ集団ザルカウィらも含まっている。断固、殲滅すべきである。

2 しかし、泥沼化の可能性大である。民心も必ずしも得られていない。
  かっての支那事変もかくあったのではなかろうか。
  拠点を押さえても、押さえても彼は砂漠の海へ逃げる。そしてまたいつの間にか結束をし歯向かってくる・・・。エイリアンとの戦いだ。

(以下本論)

3 某コメンテーター(女性)が、左翼の典型的な論を展開していた。
  いわく「自衛隊が気の毒だ。身内の気持ちは、いかばかりだろうか。私にも知人がおり、他人事ではない。撤退すべきだ。・・・」などと。
  ちょっと待て。まず、そんな言い方をして欲しくない。自衛隊は法令に基づいて出動している。
  危ないから、自衛隊が出動しているのだ。
  その自衛隊を手かせ足かせにして、まさに気の毒な状況に置いているのは誰だ。
  このコメンテーター氏も含めた我々国民の責任ではないのか。まるで自分らが負うべき責任を感じていない。同胞への愛情もない。口先だけなのだ。身内でなくて良かったと本当は思っている。数分後には、これらの事は全く気にも留めていないだろう。・・と思える。
 本当は自分達の問題なんですから〜っ。ザンネンッ。
 
 夜になって、テレビからまたぞろ同じようなコメントが聞こえてきた。それも与党の議員だ。
 古賀誠、加藤紘一、亀井静香氏などが自衛隊の危険のゆえに撤退せよと小泉首相に迫ったなどと得々と述べていた。
 ちょっと待ってもらいたい、自衛隊はことに臨んでは身の危険を顧みず対応する事になっている。そのために、(名誉は与えられていないが)所要の禄を頂いている。それが仕事なのだ。危ないから、という理由で動かすのはおかしくはないか。消防手に火事場が危ないと言っているようなものだ。
 それよりも国のためか否かをしっかり議論して、国益に照らしたあるべき姿を示してもらいたいものだ。
 そして、自衛隊に命を張って行って来いと言うべきだ。その際に、法的装備に不備があるならさっさと整備に励んでもらいたい。
 職業人をバカにするのでないぞ。

☆ひとりごと
16.9.14 捕虜虐待に関すること

  (正論十月号、ハイ正論調査室の質問「捕虜虐待に関すること」への回答として作成したものでが、採用されませんでした)

 捕虜虐待は、戦場という極限の世界では十分に有り得ることです。しかし、今回のイラクでの捕虜虐待には、それだけでは説明できない別の力が更に働いているように思います。ひとつには人種差別(白人優位の思想)であり、もうひとつは遊牧民族の性(さが)です。
この辺の事情は会田雄次著「アーロン収容所」とリンドバーグ著「第二次大戦日記」に的確に著されています。
 「アーロン収容所」では捕虜となった我が軍将兵を残忍に扱う英軍人の姿が描かれております。具体例は同書に譲るとして、著者の会田氏は、その根底には「(英国人からみれば)植民地人や有色人はあきらかに『人間』ではないのである。それは家畜にひとしい・・・」という思想があり、だから「殺そうが片輪にしようが、良心の痛みを感じないですむ」と言っています。会田氏が、その当時の気持ちを「再び英国と戦うことがあったら、女でも子供でも、赤ん坊でも、哀願しようが、泣こうが、一寸きざみで五分きざみ切りきざんでやる。」とまで述べている程です。
 「第二次大戦日記」もこれと同様で、米軍による非道な行為が描かれております。投降者を多数虐殺したり、戦死者をゴミ捨ての穴に投げ込んだり、遺体を損壊して頭蓋骨や大腿骨、金歯などを取り出して装飾品を作ったり等々のことが数多く行なわれました。
これらの史実の延長線上に、イラクでの捕虜虐待が存在している訳です。これは、民主主義国家であるか否かは関係なく、民族性などによるものです。
一方、我が国ではどうだったでしょうか。
 農耕民族という温和な気性であることに武士道の精神があいまって、右と全く好対照の状況でありました。以下の例は、我が軍の敵将兵に接する基本的態度です。
古くは元寇の際、水死した幾万の蒙古兵の慰霊のために円覚寺が建立されております。日露戦争では、激しい旅順攻防の後、敵ロシア将兵の墓地が整備され礼拝堂が建立されました。松山捕虜収容所の捕虜厚遇ぶりはあまりにも有名です。また、かの南京攻略に際しては、巷間いわれる大虐殺どころか戦死したシナ兵のための慰霊祭が、厳粛に執り行われております。泰緬鉄道建設の際の死亡した英国将兵のためにも立派な慰霊碑が戦闘の合間に建立されております。
 とかく我が軍の捕虜虐待があげつらわれますが、その多くは大量の捕虜の扱いが生来不慣れで(会田氏が指摘するように、例えば遊牧者が羊の群れを管理するというような文化がない)、また自軍のことで精一杯で捕虜への厚遇など行なう余裕も無く、結果として捕虜虐待と看做される状況を招来したということではないでしょうか。
 戦場という極限の世界で起こり得る行き過ぎはあったでしょうが、我が軍には、人間性を全く無視するような虐待虐殺の類は無く、反対に連合国側にそれが著しかったのです。
ただ、「それは文化や社会構造の型の問題で、文化や道徳の高さなどという価値の問題ではない。(会田氏)」という認識も必要と思います。

 

☆ひとりごと
16.9.3 通勤は人生の無駄?

  先日、職場で通勤時間のことが話題になりました。私、はたで聴いておりました。
 Aさんは職場から自宅まで徒歩5分、Bさんは電車などで1時間以上。
 Bさんいわく、
 「A君、いいなあ。僕は年間何百時間も通勤で無駄な時間を過ごしている。一生に直すと莫大なものになるよ。ったく。」と。
 
 私も通勤時間についてはBさんに同じ。でも、Bさんのように考えていないのですかさず反論しようとしましたが、Bさんは部活の先輩でもあるし、言うといやみな自慢にもなるのでグッと言葉を呑みました。

 世の中、Bさんのように考える人が多いと思います。
 私は逆に、通勤時間は一日のうちでかなり充実した時間になっています。
 一日往復約2時間+、読書タイムなのです。最近は逆に車中のほうが本が読めるというような感じにもなりました。
 片道で、本の厚さにして3〜4o読めます。1週間では3p以上、本2冊。年間では数十冊になるのではないでしょうか。
 読書は、机に座っておもむろにとか、日曜日を使ってゆっくりととか、人それぞれではあるでしょうけれども、私の場合はむら気が多く集中力に欠ける嫌いがあるのでそれがうまく出来ないという面もあります。

 私の通勤は、読みたい本を手に持ってわくわくなのです。
 ただし、一杯やったあとの帰りの通勤時間はその限りではありません。このときばかりは通勤時間を呪いまくります。
 人生、良い事もあり悪い事もありでしょうか。
 
 今回、イヤミな自慢を致しました。

 

☆ひとりごと
16.8.15 靖国問題

  靖国神社には、約250万柱(現在2,466,427)の国事殉難者が祭られている。このうち200万柱強(2,133,823)が大東亜戦争で戦死された方々である。そしてその多くの方々は、召集令状という国の命令に応じて出陣され、国のために戦い、非業の死を遂げられたのである。その方々は当然のこと出来るならば、戦場へは行きたくなかった。それを、国が召集し戦場へ送り出したのである。

 国が送り出した。
 ならば、国が責任を持ってその霊をお慰めし感謝するのは当然過ぎるほど当然ではないか。
 国の責任者はだれか。
 総理大臣である。送り出した責任者も総理大臣であれば、お迎えする責任者も総理大臣である。したがって、総理大臣は堂々とその責任を果たすべきである。なに臆する所あろうか。

 もうひとつ。
 国と兵士との間には、死んだら靖国にお祭られるという了解があった。亡くなった方との約束を、生きている我々が反故にすることは出来ないではないか。これは、魂は存在するとするわが国の特有の考え方であり、他民族・他国にとやかく言われる問題ではない。そもそも、かの中国であれ韓国であれ、国家のためになくなった方に対しては国家が慰霊をしているではないか。
 また、いわゆるA級戦犯といわれる方が合祀されているからなどと、彼の国は言う。A級戦犯とは、東京裁判という名前ばかりの裁判(実質、戦勝国の恣意で作った茶番劇)で無理に仕立てられたものである。(細部は他に譲るが)当然これは無効である。総理大臣は、内外にこの点を高らかに宣言すべきである。

 靖国神社への参拝は、全くの国内問題である。それが、国内問題に留まっることなく国外問題(もどき)になっているのはなぜか。それは中国・韓国というたったの2カ国が絡んできているからである。
 なぜ、この2カ国に対してこうまで卑屈になるのか。
 それは、全く根拠の無い罪の意識による。作られた罪に対する意識である。
 もともと謙譲の美徳を尊び、国際的にもうぶでお人好しの国民性であるところへ、東京裁判というまことに卑劣な見せしめのパフォーマンスが巧妙に行われた。これに、善良なる日本国民がやられてしまったのである。洗脳されたのである。この洗脳計画はアメリカの公文書によれば、「War Guilt Imformation Program」という。(公式の概念として洗脳計画というのがあったのですぞ)r
 我々はこの点に目覚め、毅然とした態度をとらねばならない。
 
 どうすればよいか。
 私は、行きつくところは教育だと思う。学校での先生による、家庭での親による、世間におけるマスメディア及び政治家による教育が必要である。
 
 先般のアジアカップにおけるシナ人の狂態をみれば我々は教育の効果の偉大さを知ることができる。

追記)河野洋平衆議院議長は、17日の講演で首相の靖国参拝を念頭に「いろんな問題を起こすのならもう一度考えてみる必要がある」と語ったそうだ。河野氏は9月に訪中の計画があるそうだから、これはその前の媚びであるに違いない。慰安婦問題でも国賊に値する発言をしたのに、全く懲りていない。見かけは押し出し十分で大人を思わせるが、中身は無いということがよく解った。9月の訪中を要監視だ。

行って来ました靖国神社。
今年は朝から大雨でしたが、昼から雨も上がり爽やかな日和になりました。
年配の方が多いように思われましたが、若い人も比較的多かった。年齢層も多様。





こんな人が散見されました。当時の方々でしたら、わからないでもないのですが、全くのコスプレです。
よぉ、解らん。






こんな方もいました。若い人でした。
帰り際に、一礼です。
周りの方々と好対照。







☆ひとりごと
16.8.7 2ちゃんねる(最近読んだ本の項)の続き

  「最近読んだ本」のところで、2ちゃんねるのことを書きました。
 「便所の落書き」風の書き込みが多くて、よい情報を読み取るのに大変だ。ただし、拠点サイトというようなものがあると紹介しました。

 ありました、ありました。

 今朝、宮崎正弘氏からのメルマガを読んでいたら、台湾「高砂義勇兵」慰霊碑“撤去”に関する記事があり、その拠点サイトに行くことが出来ました。拠点サイトの好例と行って良いのでしょう。

 http://www.takashago.com/

 支援サイトとも言うようです。ここから、その話題がテーマになっている場所(スレ(ッド))にいける訳です。
 これなら、2ちゃんねるの洪水でおぼれる心配はありません。
 内容も、なかなか真面目。便所の落書きではありません。

 さて、その内容、大東亜戦争において活躍した台湾高砂族の顕彰碑が撤去されそうであるので、義捐金をもってこれを救おう、というものです。産経新聞にも関連記事が出てましたね。
 私も、一肌脱がせていただきます。

 台湾と朝鮮は、日本の植民地(韓国は併合)でした。日本は、共に同じようにわが領域領民としてその経営に当たりました。大方において、日本国民と同じような接し方をしたのです。(細部は略)
 しかし、両国の日本に対する感情はまさに天と地です。朝鮮には、心が通じなかったということです。残念なことですが、相手のあることですから止むを得ないということでしょう。
 しかし、台湾高砂族の恩義には報いなければなりません。
 賛同される向きは、上記のサイトをご参照のうえ、どうぞ。

追記;こんな風情です。関連の読物もあります。
http://www.a-eda.net/asia/takashago.html

 

☆ひとりごと
16.8.2 皇太子妃雅子さま

  皇太子妃雅子様は「適応障害」であると宮内庁が発表しました。一連のストレスにより不安や抑うつ気分が表れているが、ご回復の兆しがでているそうです。
 
 「抑うつ気分」というのは、気持ちがふさいでしまって晴れ晴れしない心の状態のことだそうで、「うつ状態(うつ病ではない)」のカテゴリーだそうです。
 また、「適応障害」というのは、対社会的な機能が低下し、通常の社会的活動が行えなくなるなどの、社会性の欠乏の障害をいうそうです。宮内庁が、「うつ」という言葉を慎重に避けようとしたものと思われます。
 平たく言えば、雅子様はうつ状態であられる。

 うつは今日本で増えているそうです。もともと日本人の気質として罹(かか)りやすいのだそうで、それに加えて近年のストレス社会です。増えるのも解ります。
 
 うつになぜ罹(かか)るか。私の理解は次のようです(詳しくは下記※)
 もちろん人間が罹る病ですから、単純ではありませんが、キーワードの一つが「喪失」ということのようです。その人が、なにかを失ったことによる心の痛手というのでしょうか。
 卑近な例で、サイフなど大切なものを無くすと大変気持ちが落ち込みます。これが、愛する両親とか、生きがいとか、その人にとってもっと大切なものであれば、それだけ落ち込みは大きいものになります。そして、これにその人の性格や考え方が重畳します。楽天的な見方の出来る人であれば、ひととおりの悲しみの後に回復へ向かうのでしょう。ところがそうでない人であれば、落ち込みは更に深まっていく・・。というのが粗筋(あらすじ)のようです。

 雅子様は、なにを失われたのでしょうか。
 それは、直接的には引き続きご自身がなさりたかった「外交活動」だと思います。
 
 皇室は「外交」などしない。雅子様は考え違いをしている。などという声も聞こえてきますが、私はそうではないと思います。雅子様は、そんなことは解っています。雅子様は、ただただご自身の持ち味を生かして「皇室外交」に寄与したかった。それがまた国家国民のために繋がるとお思いになっていたと思います。ご自身の存在意義をこの点にお感じになっていたと思います。まじめなかたですから(もちろん想像です)、その思いは大変強いものがあったと拝察いたします。
 それが、そうならない。

 宮内庁の(保身第1主義の)役人どもが、それを「奪った」のです。
 雅子様には、すでに男児出産という責務(?)に対するストレスがありました。我が数千年の、皇室を縦軸にした「国家」に対する責務です。この「日本国の連続」というものが雅子様おひとりにかかっている。皆さんだったら、これに耐えられますか?

 こういう厳しい情勢の中で、雅子様の生きがいに近いものを喪失されたのです(というより奪い取られたのです)。皇太子のお怒り、あの異例のご発言も解るではありませんか。
宮内庁発表の「うつ気分」などという、能天気な状態ではありますまい。私は相当深刻だと思います。
 しかし、相応の医師団が付いたはずです。今は彼らに期待するしかありません。また、皇太子のお怒りをきちんと受け止めて、宮内庁こそがその責務を果たしてもらいたいと思います。国民も、興味本位ではなく、わが本家の一大事なのですから、そういう目で見守りたいものです。

(蛇足)
下記の記事の中にもありますが、「同情ではなく共感」が必要です。
「同情」には、相手を弱者としてみるニュアンスが含まれています。これでは、本当の理解にならず相手の癒しにつながらないということだそうです。
したがって「共感=相手に対する感情移入=相手の癒し」ということが必要ということだそうです。ちなみに「共感」は英語でrespect(尊敬)と言うそうです。

※参考
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00585/mokuji.htm

 

☆ひとりごと
16.6.30 させていただきます
  私は、S武線沿線に住んでいますことから、通勤にS武鉄道をもっぱら利用しています。利用にあたって、前から大変気になっていることがあります。
 それは、列車のドアの開閉の際の駅員/車掌のアナウンスについてです。全員がそうではありませんが、大部分の駅員が「ドア、閉めさせて頂きま〜す。」などと間抜けな言い方をする。「閉めさせて頂く」とは何たることか。せっかく熱中していた読書も中断されてしまうのです。

 ドアを閉める合図としては次の3つの言い方が可能です。
@ ドアを閉めます。
A ドアが閉まります。
B ドアを閉めさせていただきます。

@は「(私、駅員の責任において)閉めます。」、
Aは「(私の意志がトリガーではありますがが、物理現象の経過として)閉まります。」、
Bは「(お客さんのご意図を受けて)閉めさせていただきます(従って、そもそもの責任は私ではなくお客様です)」
となる。
 従って、Bの言い方に私はかーっと来る。当然@でなければなりません。

 また、気をつけて聞いていると、S武鉄道の駅員全員がそう言っている訳ではない。が、せいぜい「閉まります」までである。そして、その場合とは、駅員の気がせいているときであるようだ。そんな時、思わず本来の言い方である「閉まります」という言い方になるのであろう。逆に言うと、普段は、意識をして「・・頂きます」などといっているわけである。ああ、いやだ。

 以来、私は、あちらこちらに鉄道で移動する際、この点を注意深く聞いて来た。
 概ね、S武鉄道は、Bが最も多くAもあるが、@はない。
 S武鉄道以外ではAがほとんどであり、Bはない。従って、Bは、明らかに会社の指導によるものであろう。私は、いずれ事故がおきるのではないかと思っている。こんな無責任で客を小ばかにして真剣味のない会社は危ない。ほかに適当な手段がないから乗っているが、乗る際は万一の衝突などに備えて受身の方向などをイメージするようにしている。

 某民主党代表に、鳩○という人が居たが、これが「・・させていただきます」の権化だったなぁ。あのような言い方では、責任観念、政権はの自信などまったく感じさせず、政治家としての信頼など置きようがない。そういえば、すぐ、見えなくなりましたね。

 なお、過去1〜2年近い徹底的な個人的調査の結果では@を言ったのは次の3件でした(とっさにノートに記録)。
1.平成16年6月3日JR京都線車掌。
2.同年6月29日JR山手線車掌(女性)
3.同年7月1日相鉄線横浜駅車掌
気持ちがよかった。

 

☆独り言
16.5.25戦争しかない(拉致問題)
 昨夜(24日)のテレビのドキュメンタリィ番組をみて、拉致被害者ご家族の悲しみへの共感とわが国の不甲斐なさへの悔しさで涙し、金正日に対する憎しみを新たにした視聴者は多かったのではないだろうか。日本は根本的に狂っているのだ。そして、その自覚がない。
 国民の胸中にふつふつと沸きあがる怒りをどうすることもできない。具体的な手が打てない/打たないのだ。

 そう、本来ならこれは戦争だ。
 我が同胞を不法にも我が領域から公然とさらっていった国があるのだ。それを、返さないという。
 対話が成り立たないのだ。ここまでくれば、戦争しかあるまい。

 だが、実は、戦争はせずとも防止はできた。早期解決はできた。
 武力に訴えなくとも、戦争をも辞せずという気概、加えて、それを実効ならしめる兵器体系と法体系があればこのような状況までにならなかった。
 小泉さんはじめ多くの政治家は、このパワー(軍事力)が分からないのだ。外交は「棍棒片手に猫なで声でする」という。この「棍棒」の意味が実感できてないのだ。世界の中で、ピエロを演じていることが分からないのだ。
 国を守る気概を基礎にして、所要の兵器体系と普通の法体系が整備されておれば、こうまで舐められることはなかった。

 かのテポドンだかノドンの発射準備に要する時間を見越して、彼がそれに手をかける前に金正日の脳天にトマホークをつきつければ、やつは降参なのだ。なんなら、ヤツが発射機に手をかけたという理由をあとからくっつけて、やってしまっても良い。勝てば官軍だ。

 ここで急いで付け加えると、私が言いたいのは、そのくらいの気持ちを持つべきだということなのだ。そのくらい図太くなければ、この世界で生き抜いては行けない。外交交渉だって迫力がでない。特に、品位のかけらも無い困った隣人たちと、今後もうまくやって行くには必要なことだ。うぶでお人よしの日本人から、もういいかげんに卒業しよう。

 ここで、一喝すべきだ。
 「なめるんじゃない!いい加減にしろ!きっちり拉致の実態を明らかにしないと、米も薬もだめだ。船舶の入港もだめ。ミサイルを撃つなら撃ってみろ。即、日米安保発動、お前の命はないと思え。俺(国民)は、怒ってるんだ。」

 一夜明けても興奮冷めやらず。
 憎っくき金正日、不甲斐ない日本。

 

☆独り言
16.4.8高橋尚子アテネ落選(陸連の自縄自縛)

 先般の、アテネ・オリンピック女子マラソン代表選手の選考に際しての、陸連の思考過程を推測すれば、次のようであったろう。

 選考基準は既に決められている。陸連としては、それに従い、苦渋の決断をせざるを得なかったのです。陸連として本当に選びたかったのは高橋選手だったのですが、この基準があることで、それができなかったのです。(悪いのは基準であって)我々は悪くはありません、むしろ我々は(その基準の故に)大変につらい思いをしたのです、と。

 ここで、まず問われるべきは、責任観念の希薄さとそれに表裏一体の教条主義ではなかろうか。責任をとることを恐れるあまり、選考基準なるものを作り、それに全てをおっかぶせてしまった。基準があいまいだったとか、大会を3回に絞るべきとかいうような問題ではない。最終的決心は陸運の見識と責任で総合的に決定するという覚悟がなく、基準ありきで終始し、(結果的に)人智の介入を許さないことになってしまったところがおかしいのだ。責任回避の精神が自縄自縛の状態を作ったといえよう。

 一方、この反対の事例を、私は、先日のK-1(曙・武蔵戦)に見た気がした。曙の反則で試合が中断し、以後の展開について大いに気をもませたが、レフリーは「私の責任で続ける」旨を高らかに宣言した。細かい規則はわからないが、いずれにせよ、選手のダメージの状態、興業に与える影響等々を総合的に判断しての宣言であり、「私の責任で」という箇所が、私には大いに輝いて聞こえた。

 そもそも、事態は人の予測を超え千変万化していく(と、考えておかねばならない)。基準はあくまで基準とし、最終判断は人智によって総合的にされるべきものである。戦争・戦闘の場面がその最たるもので、命令を与える側は「目的と任務」をのみ示し、原則、その達成手段などは当該指揮官に任せてしまう。そうでなければ、激変する情勢に応じきれないからである。冒頭の事例に即していえば、本当は、国民は専門家としての陸連に細部を委ねているのである

 本稿は陸連攻撃が目的ではない。今回の事態の類型が、制定以来墨守されている憲法をその根源として、今の日本のいたるところに蔓延している、そのことを指摘したいのだ。例えば、最近話題となっている武器輸出3原則等もまさにこの自縄自縛の典型であろう。当初の3原則の精神が許容する範囲で、人智を働かせれば(自縄自縛であるから自分でほどけばよい)、衰退した経済の回復にも、技術立国としての進展にも、防衛の成就にも大いに貢献できるのに、まことに残念なことである。

 こう考えていくと、それもこれも東京裁判史観のなせるわざ。根は深く、ただ嘆息。

 

 

 

 

 

 

 

 

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