ひとりごと・・・

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☆ひとりごと

20.8.6

統幕長と防衛省改革会議報告書

 統合幕僚長というのは自衛官24万人のトップです。
 軍事の面から防衛大臣を直接補佐し、部隊に対する防衛大臣の命令を執行することがその大きな任務です。

 まぁとにかく偉いのですが、実は私の同期です。防衛大学校(横須賀)、幹部候補生学校(江田島)で同じ釜の飯を食いました。同期の中でただ一人の現役で、制服を着て頑張っています。
 
 統幕長は、月に1回、統合幕僚監部のホームページで、挨拶を述べています。毎月、その職位に恥ずかしくない内容のものを書かねばなりませんから、これだけでも大変だと思います。
 8月の挨拶は、自衛隊で起こった不祥事対策とも言うべき「防衛省改革会議がまとめた報告書」が主題になっています。
 今日は、それについて感じたことを書いてみます。

 まず、統幕長の挨拶は次のようなものです。

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 統合幕僚長あいさつ(8/1 統幕)

 先月開催された北海道洞爺湖サミットにおいては、各国首脳により、地球環境問題やエネルギー問題等が協議されました。特に地球環境問題に関しては、以前は、大きな問題として取り上げられることはありませんでしたが、地球温暖化の現象が現実に観測されていること等を受け、近年は世界全体の課題として大きく取り上げられるようになってきていると認識しています。このような変化に対応すべく、二酸化炭素の削減や低燃費のための技術開発等、企業においては、様々な取り組みが行われています。

 さて、先月15日、政府の防衛省改革会議より、防衛省改革に関する検討結果をとりまとめた報告書が総理大臣に提出されました。本報告書は、幅広い知見と経験を有する有識者の方々による国民の目線に立った議論がなされた結果であり、示唆に富んだ内容となっていると認識しています。報告書においては、不祥事の検討・分析を踏まえ、「規則遵守の徹底」、「プロフェッショナリズムの確立」、「全体最適をめざした任務遂行優先型の業務運営の確立」の3つの改革のための原則が示され、これらの原則に関連する具体的な措置や改革を担保するために必要な組織改革等が提言されています。これを受け、防衛省においては防衛省改革本部を設置、統合幕僚監部としても統幕組織検討委員会を設置し、改善措置の実行に着手しているところです。今後、具体的な施策や組織の改編について明らかにしていくことになりますが、これに魂を込めることができなければ「絵に描いた餅」となってしまいます。なるべく早期に、そして、できることから実施し、魂のこもった改革となるよう、全隊員一丸となって努力して参りたいと思っています。

 話は変わりますが、企業においても、環境の変化への対応、業績の向上、あるいは生き残りのために、各種施策や様々な組織改革を行っています。この際、経営コンサルタントを活用する場合もありますが、あるコンサルタントの方が興味深いことを述べています。それは、市場分析、競合分析、自社分析等多角的な角度から分析して合理的な企業戦略を提言し、企業トップが共感し、それを採用したにもかかわらず、思うような成果を出せないケースも少なくないということです。結果を出したケースを見ると、戦略を実行する社員が極めて高い当事者意識をもって議論をし、戦略の実現に取り組んでいるという共通点がありますが、実は、この一人一人が当事者意識を持つという「当たり前」のことが大変難しいのだそうです。

 防衛省改革として、不祥事の再発防止のための具体的施策の実行や組織の改編等に取り組んでいくに当たり、隊員一人一人が当事者意識を強く持って改革を実現していくことが極めて重要であるということを忘れてはならないと思っています。企業と防衛省では組織の目的等について違いはあるものの、当たり前のことを当たり前のようにやることが今我々に求められているのではないかと考えています。

統合幕僚長 海将
  齋 藤  隆

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 第2段落目の主題になっている「防衛省改革に関する検討結果をとりまとめた報告書」は↓で見られます。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/bouei/dai11/pdf/siryou.pdf  


 統幕長、お役目、本当にご苦労様です。
 「福絶やす男」氏の事務処理的な対応の成果にすぎない、こんな適当な報告書にも付き合わなければならない訳ですからね。(皮肉ではなく、本当にそう思っています。)
 皆さんも、一度この報告書に目を通してみてください。

 内容は、一言で言えば、おざなりです。
 報告書では、「U不祥事案−問題の所在」という項で問題の分析をしていますが、その段階からもうおざなりで表面的なのです。あたごの衝突事故に関しては、まるで小説家かルポライターが、筆に任せてかつ先入観で決め付けて書きなぐっているとしか私には思えません。(そこだけでも読んでみてください。)こんな姿勢の分析じゃぁ、適切な結論など出てくるはずがありません。

 で、出された結論は、統幕長のあいさつ2段落目にでてくる「規則遵守の徹底」「プロフェッショナリズムの確立」「全体最適をめざした任務遂行優先型の業務運営の確立」なのですが、こんなことですかねぇ。どう思いますか、皆さん?
 
 出すべき結論は、「なぜこの3つの項目のような状態になっていないのか」及び「その解決の方向性」であって、そのことが分かるような表現であるべきです。
 
 ところがそうなっていない。
 報告書の後段に「改革提言」なる項があることはあるのですが、例えば「規則遵守の徹底」については、「幹部が率先し‥、指導・教育を行い‥、チェック体制を強化し‥、」てなことしか書いてない。いうなれば、「規則遵守の徹底を徹底せよ」といっているだけなのです。
 防衛省改革会議のそうそうたる(?)メンバーでは無理だったのでしょうか?

 さてもう一度、統幕長のあいさつに戻りますが、その辺のところについての感想を、統幕長はこの第3段落目に書いているのかな、と思いました。(‥深読みかもしれませんが。)

 その第3段落目には、企業でも改革が行なわれているが、結局その成否は構成員の「一人一人が(まっとうな)当事者意識を持つ」ことがポイントであって、その「『当たり前』のことが大変難しい」のだ、と書いてあります。

 つまり、統幕長の言い分は、防衛省改革会議で報告書が作られたけれども、「一人一人が(まっとうな)当事者意識を持つ」という大事な観点が抜けてるんじゃねぇの?ということではないかと私には聞こえるのですね。
 (まっとうな)という語を挿入しましたが、この「まっとうな当事者意識」というのが自衛隊に不足しており、だから、いろいろな事故が起こっている、と私は思います。
 
 では、なぜその「まっとうな当事者意識」が不足しているのか。
 それは、途中省いてざっくり言ってしまうと、その核心は「憲法」にあると思います。ここにあらゆる物事が関連し、あるいはここから派生しているのです。だって、自分達の存在自体が憲法上否定されているのにまっとうな当事者意識を持てるわけが無いじゃありませんか。

 報告書は、この部分に全く触れておらず、そこに至る手前で身をひるがえし議論を完全にU-ターンさせております。私は、全面的にここに集中して議論を展開せよ、と言っているのではありません。こういう根っこの部分を触れないのは、おかしいのではないですか?真面目にやっているのですか?と言いたいのです。

 つまりは、あの防衛省改革会議のそうそうたる(?)メンバーでは無理だったのです。
 なんとなれば、彼らもまた「まっとうな当事者意識」がなく、「福絶やす男」と同類項であるからです。というより、福田さんの方が同類項を選んだということなのですね。そう考えると分かりやすい。(元統幕議長の竹河内氏もそれに含めるのは不適当かもしれません。)

 
 統幕長に実のところを聞きたい気がしますが、彼が無事退官したら、聞いてみようと思います。


 テレビを見ると、福絶やす男さんが「靖国には行かない」と誇らしげに語っております。
 「首相として色々と困難な点があり、残念ながら見送りたい‥」ならまだしも、この堂々たる?態度は英霊たちに対するこの上ない侮辱、すなわち私たち日本人に対する侮辱ですね。この温厚な私さえもが殺意を覚えるほどですから、福田さん、気をつけないと危ないんじゃないでしょうか。

 

☆ひとりごと

20.5.20

トールペイントに血が騒ぐ?

 私が海上自衛隊に勤務しておりましたときの部下に当たるベテランパイロットが定年退職しまして、始めたのが、自営業。
 奥様がトールペイントを行い、旦那が木材で素材を作るという分業体制による営業です。
 しゃかりきで売りまくるというものではないので(今時、あちこちで見られる)悲壮感など全く無く、お客さんとのやりとりを楽しみながらやっていくという、理想的なやりかたです。
 ちなみにトールペイントとは下欄※のようなことだそうです。

 お宅に行ってびっくりしました。
 庭に小屋を建ててそこをお店にし、そこに夫婦の共同作業の成果である作品を飾って、販売をされているわけです。また、家の裏手のスペースを利用して、家の外壁に沿うような格好で木工作業場が作ってあり、旦那がをそこで小間物(といっても比較的大きなものもありました)を作る訳です。そして奥様が絵を描き付けられる訳です。
 
 私も、ものづくりにはずいぶん古くから大いに関心がありまして、新婚の世帯道具を買うとほぼ同時に大工道具を買ったくらいです。思えば、なにやかやといろいろなものを作りました。日曜大工定番の棚から始まって、分解式の机、本棚、引き出し式の小物入れ、キャスター付き赤ん坊用ベッド、‥最近の大物はウッドデッキ‥。
 このところ本格的木工から遠ざかっていましたが、今回、彼の手になる小屋と作業場を見て、往時の創作意欲がもりもりと湧き上がってきました。
 また、忙しくなりそうです。

 (少し詳しくは、こちら

 

※ト−ルペインティングとは簡単にいうと、ヨ−ロッパからアメリカへ、移民の人々より持ち込まれた伝統的装飾技術を土台にして、木や陶器やブリキや布などあらゆる素材に絵を描くことを総称してト−ルペインティングといいます。
第二次世界大戦中、ドイツで研究され、アメリカでほぼ完成した画期的な水性樹脂絵の具いわゆるアクリル絵の具が、ト−ルペイントをアメリカで飛躍的に一般の人々のクラフトとして流行させてきました。
乾きが速く耐水性に富み、ツヤを自由に調節できる絵の具で誰もが手軽にト−ルを楽しめるようになりました。

 

 

 

☆ひとりごと

20.3.2

裁判三題

 2月19日未明野島崎沖で発生した「あたご・清徳丸衝突事故」に関連して、いわゆる「なだしお事件」の裁判について書かれたものを読み返していたのですが、たまたま裁判に関わる話題があと二つありましたものですから、それらについて以下に記します。
 
 裁判といっても所詮は人が裁くもの、その限界について私達はしっかりと見極めておく必要があります。


1「なだしお」裁判 

 あたご・清徳丸衝突事故はあたご艦長の謝罪とそれを受け入れた親族の対応で一つの山を越し、しばしの静寂が漂っています。これまでは、事故原因について「あたご」は必ずしも全面的に悪くないと思っていても、行方不明者がおられることからそれをあからさまに口にすることができないという雰囲気がありました。しかし、この度の親族の静かで穏当な対応振りがあったこともあって、多くの国民がこれに感銘を受けると共に胸のつっかえがとれたような気持ちになったことが一つの要因になったように思えます。これを敏感に感じ取ったマスコミはこの点に物が言えなくなったということだと思います。自動車事故だって10対0なんかありえない事は、常識ですし、その常識から外れたマスコミの異常さが際立ってしまった訳です。そこで、彼らは、事故そのものを論点にすることを止め、次は自衛隊、政府の態勢の不備を突くことに戦術を転換して来ました。反自衛隊(反国家)の戦いは、まだまだこれからだ、というわけです。

 一方これに受けて立つべき、我が陣営からでてくる材料はお粗末なものばかりだし、上層部の右往左往ばかりが目だって、最後まで信じよう、応援しようとする気持ちが萎えてきそうです。しかし、それらは所詮小出しの情報で、事実関係は未だ明確になってはいません。その段階に至るまで、しっかりと支え続ける必要があると私は思います。(身内からの非難の声がありますが、大変残念なことと思います。)
 テレビなどを見ていると、既に「あたご=全面悪」という前提でしゃべっている有力国会議員(管某)などもおりますが、その点については少なくとも事実関係が明確になってからだ、と突っぱねなければならないと思います。でなければ、後に禍根を残すことになります。

 さて、今回の事故ですぐに想起されるのはいわゆる「なだしお」事件ですが、あの時は過激なマスコミの先走りと扇動によって国民が引きずられ、なんと裁判所までもが悪乗りをしてしまった、という状況がありました。
 「あたご」も海難審判を受け、刑事裁判の場に立たなければならないのですが、今の段階から早々と妙な謝りかたをしたり、「あたご=全面悪」という既成事実化に手を貸すようなことをしてはなりません。(応分の過失についての謝罪、国家国民を守り得なかった落ち度については心からの謝罪は必要です。)そうして、「なだしお」裁判の状況を戦訓として次なるステージに臨む必要があります。

 その「なだしお」裁判の状況について、極めて当を得た論評を載せた本があります。小堀敬一郎著「再検証東京裁判」という本でして、その中に1章を設け「再検証『なだしお』判決」と銘打って、主に横浜地裁の判決文(400字詰め原稿用紙135枚相当)を基に「そこに表れている幾多の論理上の欠陥、判断の誤謬等を指摘し、この様な不条理な司法裁定が通用する現在の日本の社会にひそむ或る種の病弊に説き及ばんとして」書き進められ、その成果がそこに存分に書き表されております。
 そこで指摘されている大きなポイントは、裁判官のおおいなる不見識と偏向ぶりです。まさに、ためにする判決を導きだしている訳です。

 事実関係をざっと記しますと、事故そのものについては、第1審地方海難審判庁、第2審高等海難審判庁において合計15回の審判が開かれ、その結果は「海上衝突予防法第39条「海員の常務」が適用されるとして双方の過失責任は同等である」と裁決されました。
 次に舞台を移して、横浜地方裁判所における刑事裁判となったのですが、今度は、適用すべき航法は第15条の「横切り船」であるとして、なんと海難審判庁の裁定を否定し、なだしお側を非とする判決がだされたのでした。
 小堀氏の指摘は、「判決文では多くを割いて衝突自体に関わる両者の関係をこと細かく述べているが、肝心の30名の乗客を死に至らしめた原因である、第1富士丸の不備と船長近藤萬治の船長としての責任不履行についてほとんど関心が払われていない、欠陥裁判である。」というものです。
 以下の部分は大変重要な点ですが、富士丸は衝突後、約1分半、6〜7ノットの存速をもって沈みながら進行しています(下欄参照)。この1分半という時間は我々が思うよりも長いものでして、富士丸乗客の証言では「『第1富士丸』は、衝突後、傾いたままで行き足があったから沈むとは思わなかった。比較的落ち着いていたから、靴も脱いだ。河原さんの奥さんを引き上げもした。また、タイヤをはずそうとしたり、クーラーボックスを投げもした。」というほどでありました。そういう時間的余裕がありながら、近藤船長と機関長は自分達だけを助け、「乗客見殺し」をやった訳です(下欄参照)。
 そして、裁判官はこの決定的要因に関心を示すことなく、山下艦長に禁錮2.5年執行猶予4年(富士丸船長に禁錮1.5年執行猶予4年)という、実に真反対の判決を下してしまうのです。
 巷間信じられている「なだしお=全面悪」とは全く異なる事実がここにあります。しかし、世間の人々の脳味噌には誤った内容がしっかりと刷り込まれてしまっている訳です。
 大きな代償を払った「なだしお」の戦訓から、「あたご」が学ばなければならないのは、この点だと思います。ドジなところがあったかもしれないが、また国民を守るべき艦が国民を大きな不幸に追いやったという点はありますが、事実は事実として言うべきは言うという態度を絶対に崩してはならない、と思います。

<(参)なだしお・第1富士丸衝突事故の概略>
■63.7.23午後、なだしおは第3海堡をかわし、横須賀に向け西行中、右前方から自艦の進路と交差するような態勢で、約2000mの距離に第1富士丸を認む(富士丸;進路保持船-なだしお;避航船)。ほぼ同時に、左約60度約600mにヨット(イブ1世号)を認む。
■なだしおは速度を落としヨットに対し汽笛吹鳴。ヨット変針。なだしおはヨットとの危険が去ったものと判断し速度をもどし航行を継続。
■富士丸との距離700mに接近。なだしおは衝突回避のため面舵転舵。このとき保持船たる富士丸は、この右回頭に気付かず9.8ktから8.2ktに減速し、かつ法令に違反して取舵転舵。この結果、左回頭する富士丸の進路を右回頭するなだしおが遮るような形になる。なだしお後進一杯。
■なだしおが、ほぼ行脚なし〜緩やかな後進の頃、富士丸は存速6〜7ktでなだしおの艦首左側に、船体の1/3を乗り上げる形で衝突。
■富士丸は船尾から、船倉(客室に改装)に海水がなだれ込み、船は平衡を失って大きく左に傾斜。ほぼ同時になだしおの後進によって船首はすぐに海面に落ち、6〜7ktの存速を保ったまま、左回頭をしつつ東へ向かって約100m、時間にして1分半ほど前進したあと、船尾から沈没
■乗員4人、乗客44人のうち、28人は船体と共に海没し死亡。富士丸には非常用ゴム製救命筏(25人乗り)×2が装備されていたが、2基ともに正常作動。1隻は無人、残り1隻には船長(近藤萬治)、機関長及び乗客1名の計3名のみが乗船。(死者は最終的に30名。)


2 土曜プレミアム映画(テレビ)「それでもボクはやっていない」

 昨日(3月1日)夜、表題の映画がテレビ放映されておりました。途中から見たのが残念に思いましたほど良い映画でした。
 内容は、ある青年が電車内での痴漢犯人として逮捕され、弁護士(役所広司)とともに実証作業などを行いつつ反論にこれ努めるのですが、裁判官の恣意的な判断により有罪にされてしまう、というものです。

  映画の最後の場面は、裁判官が判決文を読みあげる場面ですが、それを聞きながら被告は次のように自問自答するのです。「(主旨)裁判所と言うのは、真実を明らかにするところだと思っていたが、結局は判断材料をとりあえず集めて、そしてとりあえずの判断を下すだけの場所に過ぎないのだ。裁判官も真実が分からなかった。真実を知っているのは自分だけだ。だから、自分はこの裁判官をさばくことが出来る。自分は無実である。」と。

 まさにそのとおり、生身の人間が裁くのですから、ポカがあったり、意図が働いたりするのは当然と言えば当然です。が、それが多すぎるように思います。裁判官の世界も結局は今の日本の縮図であるからです。であれば、自分の身は自分自身で守るという鉄則を立てて行動することが肝要であるということになると思います。

 (私事ですが、悪徳不動産屋を被告にして裁判を起こし、しばらく東京簡易裁判所に通ったことがあります。そのとき、この映画の主人公と同じような感じを持ちました。私の場合、相手は出頭命令にもナシのつぶてでしたから、出頭命令が届いていないのか無視しているのか、その点を確かめる必要が出たのですが、そのことを調べるのは私の仕事だ、と裁判所は言うのです。郵送あて先に当人が居るかどうか、つまり、文書が届いているかどうかはっきりしないと次の手続きに移れないと言う訳です。
 裁判所というのは原告、被告に関する判断材料が裁判官の机の上に揃ったら、判断します、という訳です。また、判決がでて、相手の財産を差し押さえをするという段階になった場合、差し押さえるべき財産(預金通帳、車など)は私が探し出さねばならないともいわれました。最初は、おかしいと言ったのですが、すぐに、おかしくともそれが実際であると納得させられてしまいました。それが、裁判所なのですね。)
 
 「裁判所」という立派な名前がついていても、実態はこんなものなのです。(ちなみに「東京裁判」は裁判ですらありませんでした。)


3 「明日への遺言」-岡田陸軍中将の法戦

昨日(3月1日)から「明日への遺言」という映画が全国劇場公開になっています。この休日に見られた方もいるかもしれません。私はたまたま試写会で観る機会がありまして大変感銘をうけました。

 戦争末期、米空軍B-29による市街地爆撃は熾烈を極めてきます。名古屋地区は岡田資(たすく)中将が防衛の任に当たっておりましたが、時に被弾したB-29から搭乗員が落下傘により脱出降下する場合がありました。岡田中将は、このうち、明らかに軍事目標以外に対する爆撃を実施したケースには、国際法違反として死罪(斬首)とし、それを執行します。これを終戦直後に問われ、B級戦犯として起訴されてしまいます。

 この映画は、この法廷闘争を描いているのですが、岡田中将は、法廷での戦いを「法戦」と称して、刑死はもとより覚悟の上で、軍の名誉と部下の救命のため、すなわち「真」と「美」を最後まで追求します。その姿には裁判官も検事も感動を覚えるほどであったそうです。
 最後は中将の目論見どおり、自身のみ絞首刑、幕僚など関係将兵は全て禁固ののち命は助かりました。
 この裁判も、いうなれば不当な裁判であった訳ですが、勝負には負けたが相撲には勝った例である、といえるかもしれません。
 原作は、大岡昇平「ながい旅」です。これを一読の後、ご覧になるのが良いと思います。

 

☆ひとりごと

20.1.26

心を動かされた2つのこと


 この数日の間に、琴線に触れる2つのことがありました。

 その1

 昨日(1.25金)、ある映画の試写会に行って参りました。
 タイトルは「南京の真実 第1部 七人の「死刑囚」」というものです。

 昨年2007年は南京陥落の1937年から丁度70年に当たるというので、諸外国において(中国による裏からの支援のもとに)10本近くの南京大虐殺をテーマにした映画が作られました。その後、どこでどのように上映されてどういう評価がされているのかあまり聞こえてきませんが、少なくとも10本近くの映画媒体が偽りの歴史記録としてこの世に残ることになったという事実には大きいものがあります。

 そのような状況の下、我が日本から、南京大虐殺などなかったのだという真実の姿を世間に知らしめ記録として残さなければならないという動きがあり、この映画が作られることになり、昨日試写会の運びとなったのでした。

 映画の内容についてですが、試写会場ステージに挨拶に立った監督がみずから、この映画は「淡々と事実を描く」という基本姿勢で作ったもので、扇動的なものはもちろんのことエンタ−ティンメント性もない、と述べられたとおりで、娯楽性のある映画ではありません。まさに真実のみを記録しようとするものです。これを聞いて味気ない内容を予想したのですが実際は、適度な味付けがちゃんとしてありました。

 映画パンフレットには、この映画の意義を監督自身が記していまして、「私たちは、中国共産党による歴史のでっち上げを許さず、粛々とその嘘と政治的意図を暴いていく。これは日本と日本人の名誉と誇りを守る戦いであり、未来の子どもたちに対する今生きている日本人の義務である。また、日本と日本国民の平和と安全を守る情報の戦いでもある。」とありまして、この監督のやっていることはまさに情報戦という「安全保障」そのものなのです。平たく言えば中国との戦争である、ということなのです。
 偉い、と心底思いましたね。

 なお、この監督の名は水島総といい、我々とほぼ同世代の昭和24年生まれの方です。

 映画の内容にもどりますが、映画は、東京裁判で絞首刑を宣せられ、昭和23年12月23日(当時皇太子、現天皇陛下誕生日)、巣鴨プリズン(現サンシャインビル付近)で絞首刑に処せられた東條英機元首相以下七人の方々の、処刑執行前一日の動きを回想シーンを交えながら再構成したものです。従って、シーンのほとんどは巣鴨プリズンの独房と絞首刑場など数箇所ですし、登場人物もこの7人と、この7人の最期までを看取った花山信勝教誨師を軸として、死刑執行側の米軍人数名などしか出てきません。それなのに、上映時間はなんと3時間。普通なら、途中寝てしまうところですが、最初から最後までぐいぐいとひきつける内容で、また映画としての味付けも適宜、上手に施してあって長時間を感じさせないものに仕上がっていました。エンディングには、会場から大きな拍手が沸きあがったほどでした。(もっとも、観客(約1000人)も、この寒い中を見に行こうという、私と同じライト系の人たちであったからかもしれません。)
 観ての感想ですが、全体として大変良くできた映画であると思いました。7人と最期まで過ごした花山教誨師の記録などを、恐らく元にしながら製作されたものと思いますが、繰り広げられる情景や7人の言動が非常に詳細を極めているように思えました。
 映画を観ながら、滂沱に近い涙が出ました。涙の訳は、7人の方々の無念の思いへの共感のようなものです。
 勝者連合国(白人)の悪辣非道、それを受け入れざるを得なかったこの7人(と日本)の無念、そして、いまなお、その悪辣非道を当然であるかのように思い込み、世界の国からは全くいわれのない非難を受けながら、徐々に沈んでいく我が日本、そしてそういうわが身の状況を認識できないでいる多くの日本人‥。涙は、7人が死に行く姿への悲しさではなく、悔しさ、情けなさがないまぜになったものでありました。東国原知事ではないですが、本当に「日本をどげんかせんといかん」と思いますね。

 この映画はシリーズの第1作で主に国内向けだそうです。(この第1作には和歌が多く取り入れられるなどしており、私たちには良く分かりますが、外国では分かりにくいでしょう。)第2作「検証編」第3作「アメリカ編」が(多分外国向けとして)予定されているそうで、これらも含めて広く観られるとよいとほんとに思います。

 

 

 

 

 

 

ここまでで、少し疲れましたが、もうひとつの書きたいことがあります。


その2 

24日、我が海上自衛隊護衛艦「むらさめ」が新テロ対策特別措置法に基づきインド洋に向け横須賀を出港しました。出港行事には、石破防衛相や安倍前首相のほか、この法律に反対した民主党議員らも出席したそうです(風間直樹氏、大石尚子氏)。ただし、肝心の福田さんは、「ちょっと用がある」(!?)ということで出席されなかったそうです(下注)。福田さんのことは、はじめから期待していないのでどうでもよいのですが、出港行事における指揮官の佐伯精司1佐のあいさつが、大変立派であったと思います。あまり報道されていないようですからその部分を次に記します。

 「淡々、粛々と適正な活動に努め、国民の期待と付託に応えられるよう精一杯努力する。(活動中断で損なわれた)信頼回復に全力を尽くします。(民主党の小沢代表らに補給活動は)憲法違反と言われたが、われわれにも意地と誇りがあります
(( )の中は、産経新聞阿比留記者の見立てです)

 この最後の言葉は問題を呼びそうな内容ですが、私は自衛隊員と(良識ある)国民の今の気持ちを代表した、立派な言葉だと思います。この、物議をかもしそうな思い切った表現がまた、その思いの強さを良くあらわしており、この意味でも立派なものです。私は、これまた、偉いと心底思いました。どんな人か顔を見てみたいくらいです。

 さて、この最後の言葉は、まさしく小沢一郎氏に向けられたものです。小沢さんは、なんと釈明しようと結局のところは日本国の足を引っ張っています。小沢さんは自分の政治活動の全てを、政権をとることだけに集約しているからです。自民党を蹴落として政権を取りさえすれば良く、それ以外のことは国が乱れようが世界の笑いものになろうがどうでも良い、と言うわけです。インド洋からの撤退では、そのとばっちりを現場の海自部隊のみならず日本国、日本国民が受けて、満座の笑いものにされてしまったのですが、そんなの関係ないという訳です。国の名誉や誇りなどなどよりも「とりあえず政権なのだ」と思っているとしか思えません。
 
 また、小沢さんは「生活が第1」という甘言スローガンを得意顔で大きく掲げ、国民をたぶらかしています。
 この言葉の実体を正確に書き直すと次のようになると思います。
「なにがなんでも『今の』生活が第1ですよ。国家として名誉や誇りを失うことでこうむるかもしれないさらに大きな厄災などよりも、です。将来の子どもたちのこと?それよりも『今の』自分たちのことが大事でしょ?ガソリンも今より25円安くなる方が良いでしょ?」

 上のように、コップの中の争いに精を出すことしかしていない小沢一派、一方、身体を張って国家の存続のために戦争をしている映画監督「水島総」氏、両者は雲泥の差というか、比較の対象にするのも失礼なくらいの差になっていると思いますね。

佐伯1佐はそこのところを、ぴしゃりと言ってくれた訳です。
「小沢はん‥なめたらアカンぜよ」

 こっちの発言にも私は涙が出そうになりました。

 

参考<23日夜の福田首相と記者団のやりとり>
■記者;
 明日想定されていた委員会審議が行われなくなった。明日は横須賀で海自派遣部隊の出発式があり、石破大臣は急きょ出席することになった。総理は出席する考えは?
■福田氏:
 私はあのー、出席できません。ちょっとそのいろいろと、やることがありますんでね。こないだ、あれです、出発されるね、艦長さんをはじめ乗組員の方、(官邸に)こられた時に、私はちょっと行けませんよと、いうことはお断りしてございます。まあ元気に行ってほしいと思っています。

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いろいろやること‥ってなんでしょうか。
まあ元気に行ってほしい‥って、遠足に行くんじゃないですよ。
島田洋一福井大学教授が福田首相を評して「筋金入りの事なかれ主義者である」と言っていましたが、そういう目でみると納得できますけれどね。

 

☆ひとりごと

19.12.18

焼き場に立つ少年

 この写真は、1945年、大東亜戦争が終わった後の長崎で撮影されたものです。撮影者は米海兵隊カメラマン のジョー・ダニエル軍曹です。ダニエル軍曹は1945年9月に米国戦略爆撃調査団公式カメラマンとして佐世保に上陸、7ヶ月にわたり長崎・広島などで戦災状況の撮影に従事しました。

以下、この写真についてのジョー・ダニエル元軍曹のコメントです。(ネット上の記事から引用)

<引用開始>
 佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺(なが)めていました。すると、白いマスクをかけた日本人の男達が目に入りました。男達は60cmほどの深さに抉(えぐ)った穴の傍(そば)で作業をしていました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

 10歳くらいの日本人少年が歩いて来るのが目に留まりました。小さな体は痩(や)せ細り、ボロボロの服を着て裸足(はだし)でした。負(お)んぶ紐(ひも)を襷(たすき)に掛(か)けて、2歳にもならない幼い男の児を背中に背負(しょお)っています。幼子(おさなご)はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷(やけど)の跡は見当たりません。弟や妹を負(お)んぶしたまま広場で遊んでいる子供たちの姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子はハッキリと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場に遣(や)って来たという強い意志が感じられました。少年は焼き場の縁(ふち)まで来ると、硬い表情で目を凝(こ)らして立ち尽くします。吹き上がる熱風にも動じません。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後に仰(の)け反(ぞ)らせた儘(まま)です。

 少年は焼き場の縁(ふち)に5分か10分か立っていたでしょうか。白いマスクをした男達がおもむろに近づいて来た時、少年はゆっくりと負(お)んぶ紐(ひも)を解き始めました。この時、背中の幼子(おさなご)が既(すで)に死んでいることに初めて私は気づいたのです。少年は火葬の順番を待っていたのです。

 白いマスクをした男達は幼子(おさなご)の手と足を持つとゆっくりと葬(ほうむ)るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず、幼い肉体が火に熔(と)けるジューという音がしました。それから、眩(まばゆ)いほどの炎がサッと舞い上がりました。真っ赤な夕日のような炎は、立ち尽くす少年のまだあどけない頬(ほお)を赤く照らしました。其(そ)の時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲(にじ)んでいるのに気が付いたのは。少年があまりにきつく噛(か)み締(し)めているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤く滲(にじ)んでいました。気落ちしたかのように背が丸くなった少年は、また直(す)ぐに背筋を伸ばしました。私は少年から目を逸(そ)らす事が出来ませんでした。少年は直立不動の姿勢で、じつと前を見続けました。一度も焼かれる弟に目を落とすことはありませんでした。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で少年は弟を見送りました。私は少年の肩を抱いて遣(や)りたくなりました。しかし、声をかける事も出来ない儘(まま)、只(ただ)もう一度シャッターを切りました。

 夕日のような炎が静まると、少年は急に回れ右をして、背筋をピンと張って真(ま)っ直(す)ぐ前を見て、沈黙のまま一度も後を振り向かない儘(まま)、焼き場を去って行きました。背筋が凍るような光景でした。
 焼き場の係員によると、「少年は大東亜戦争で家も両親も失い、そして最後の最後に少年が独(ひと)りで守ってきた弟も昨夜の内(うち)に死んだ。少年は其(そ)の弟を独(ひと)りで焼き場に埋葬に来た。」のだと言う。

 其(そ)の日の夕刻、私は宿に戻ってズボンを脱(ぬ)ぐと、まるで妖気(ようき)が立ち昇るように、死臭があたりに漂(ただよ)いました。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛みました。あの少年はどこへ行き、どうやって生きていくのだろうか! この少年が死んでしまった弟を背負(せお)って焼き場に遣(や)って来た時、私は初めて戦争の影響がこんな子供にまで及んでいる事を知りました。アメリカの少年はとてもこんなことは出来ないでしょう。日本の少年は、直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流しませんでした。傍(そば)に行って慰(なぐさ)めて遣(や)りたいと思いましたが、それも出来ませんでした。もし私がそうすれば、少年は苦痛と悲しみとを必死で堪(こら)えている力を崩(くず)してしまうでしょう。私はなす術(すべ)もなく丘に立ち尽くしていました。足に浮腫(ふしゅ)が看(み)られた少年は其(そ)の後どんな人生を歩んだのでしょうか?
 其(そ)の後、私は訪日した際にこの少年との再会を望みましたが、果たせませんでした。
<引用終わり>

 私はこの記事を読んで、歳のせいもありましょうが、涙腺がじんわりとゆるみました。
 そして、かっての日本人が持っていた気高さをこのような小さな子供までもがしっかりと持っていたのだという理解を、私はしました。

 戦前戦中を暗黒の世界のように言う人たちがたくさんいますが、そういう人は、この話を読み写真を見て、「戦争の悲惨さ」を声高に唱えるのでしょう。しかし、もちろん、そう言い切れるものではありません。それは事象(歴史)の裏と表のどちらにより強い光を当てるかで、変わるからです。また、そんなに簡単に片付けられても困ります。

 私たちは、その「戦争の悲惨さ」に負けることなく歯を食いしばり、悲しみをこらえ、そして毅然と「公」を意識して立ちつくす少年の姿に心を打たれ、そこにある種の美しさを見出すのです。
 少年は、弟という掛け替えの無い身内の死を「私」的なものとし、焼き場の順番を待つという「公」としての秩序を優先させました。この少年のことをこう捉えるか、あるいは軍国主義教育に犯されたかわいそうな犠牲者であると捉えるか、まさにどちらから光を当てるかによります。 今の世は、「個人」が何よりも尊重されなければならないという考えが充満していますから、その立場からすれば、この少年の行為はひょっとしたら理解の外になるかもしれません。不幸なことです。(その最たるお方が、あの守屋某です。これ以上書くとディスプ
レイが穢れるので、書きません。)

 この写真とともにこのような話こそ、教科書に取り上げるべきです。
 沖縄で、我が軍の兵隊さんたちが住民に集団自決死を命令した、と教科書に載せよなどという声があります。仮にそういう事実があったにしても、それを子供たちに教えてどうするのでしょうか。(慰安婦強制の話もまったく同じで、実は、これらは事実ですらありません。)こんな話は教科書には全く不適です。そんなことより、この少年の話を聞かせて見せて、子供たちを良導すべきなのです。きちんと話してやれば、子供たちは分かるはずです。
 こういう話を子供たちに聞かせ、子供たちの心を大きくゆすぶってやる必要があると思います。

 

☆ひとりごと

19.10.4

沖縄「集団自決」に思う

 沖縄で、再び「集団自決」の教科書記載変更に対する反対運動が起こっています。テレビニュースで、その映像を見て、ひとこと言いたくなった次第です。

 沖縄では、例によって大集会が、地方自治体!や新聞社の力を使って開催され、また例によって女子高校生の口を借りて国家に対する非難の声を上げさせています。かわいい女子高生が満座の席での道化師の役をさせらているのですね。なんという、残酷で狡猾な人たちでしょうか。それにしてもこの人の数!(ただし主催者は11万人と言っていますが、実際は1.5万人程度だそうです。)

 では、ここに集まった人たちを突き動かしているのは一体何なのでしょう。

 それは、単純に言い切ってしまえば、「(理解と同情はしますが、やや異常とも云える)被害者意識」と「(これに付け込む、狂った)左翼による扇情」ということではないでしょうか。沖縄の大多数の方は、自然の中でおおらかに生きておられますが、一部の先鋭化した人たち(及び本土の左翼プロども)が時にこのようにして沖縄をかき回し、更には日本をかき回すのです。(得をするのは中・韓・鮮その他。きっと笑いながら見ています。)

 この人たちのエネルギー源になっているのは、いわゆる東京裁判史観であるのですが、(その話はさておくとして、)これを今回のケースに引き写し、彼らの口を借りて表現すれば、「軍(=国)が住民に自決を命令した事実があるのに、それを教科書で否定した。わしゃ許せん。」ということなのです。普通の大人ならば、それが本当に事実であるか否か、冷静に証拠調べをして判断すべきであるのに、当時混乱の中の当事者達の断片的・うろ覚えの証言なるものをもとにして、「当事者がそう言っている。それに、とにかく、我々は被害者だ。だから問答無用なのだ。」と言っている訳なのですね。
 これには、うんざりし、なんともやりきれなさを感じるのは私だけではないと思います。

 そして、今、大変に問題なのは、その一握りの参集者たちの声を大真面目に聞こうとする動きが、福田内閣にあるということです。(参集者は日本国の人口からみればごくごく少数なのに、です。)福田総理以下は、事実の吟味をすることなく、なんとなくそれが真実であるかのようにみなし、「沖縄の皆様の思いを受けとめて‥」などというスタンスで対処しようとしています。
 福田総理は靖国参拝について「ひとがいやがることはしないほうが良い」という低次元の考えで、国家の精神の中心ともいえる靖国神社の参拝をしないなどとと言っているお方ですから、ひょっとしたら「(かわいそうな沖縄の方々が気に入るように)教科書を書きかえなさい。」などと、文科省の担当課長あたりに直接電話をしているのではないでしょうか。

 論点は、ただ一点「軍の命令があったか、なかったか」です。(従軍慰安婦問題と全く同じです。)
 
 そしてその答えは、
「軍の命令はなかった。」
です。

 「集団自決はありました。しかし、それは軍の命令によるものではなく、軍の命令があったかのような誤解がされて、あるいは自発的な判断のもとに集団での自決が行なわれた。」というのが真実に近いのです。

 当時沖縄には、準軍人/軍補助員ともいえる「防衛隊員」という存在がありました。正規に徴用された兵隊ですが、主たる業務は戦闘補助作業員というようなもので、おおむね銃器は持っておらず、手榴弾程度の装備であったようです。
 実はその手榴弾が、軍という公的な場所から、半公的なこの防衛隊員を経て、私的な家族/村民などに順次渡っていったのです。

 防衛隊員は、当時は当然と考えられていた自決が楽にできるようにと、いわば好意をもって家族/村民に手榴弾を手渡したのです。ところが受け取った側、あるいはその状況を見た人にとっては、防衛隊員すなわち「軍」が、これで自決せよと言っていると受け止めたわけです。(もしくはあえてそのようにみなしたのです。)この辺りの話は、このように単純にひとくくりにして言い表せるものではなく、このほかにいろいろなニュアンスが絡み合っているのですが、詳しくは、後記の曽野さんの著書を読んで下さい。しかし、いずれにしても、軍が命じたのではないという一点についてだけは、はっきりとしています。

 (最近、軍は「関与した」という言い方がされているようですが、そんなことをいうのなら、包丁を使った殺人事件で、包丁製造会社は「関与した」ことになるのでしょうか。それに近いハナシだと思えます。)

 沖縄の集団自決については、座間味島で五十二人、渡嘉敷島では三百二十九人といわれています。前者の座間味島では、命令を出したのは村の助役で、軍の命令はなかったと住民側の証言で明らかになっているようです。↓
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi58_text02.html

 また、後者の渡嘉敷島については、下欄(※)のような極めてリー ゾナブルかつ決定的な証拠があります。 (要は、命令はなかった。慶良間島の先任指揮官赤松陸軍大尉署名による命令書なるものが存在しているが、それは自決された方の関係者が遺族年金を受け取れるように、戦後、赤松大尉了解の下にいわば捏造されたものであった。)

 また、渡嘉敷島の件について、曽野綾子さんが、「ある神話の背景−沖縄・渡嘉敷島の集団自決−角川文庫」という本で、やはり軍の命令はなかったという論証をされています。(同著は絶版になっており、最近「沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!」という名前で再出版されています。)

 曽野さんは、命令はなかった、と言っておられます。
 どちらかというと住民の思い込みがあり、大きな背景としての当時の風潮(降伏し敵の蹂躙を受けるよりも潔く自裁するという考え)があったのです。(この本を読みながら、真実を掴むことの難しさ、いや真実というものは掴み得ないのではないかという思いを改めて強く持ちました。)この問題のなかには、論ずべき点は多々あるのですが、命令の有無については、限りない確からしさで「なかった」といえると思います。

 この本では、まず、軍命令説のおおもとになったのが、沖縄タイムス発刊の「鉄の暴風」であることが示されています。そして、この本を種本にして、あちこちで孫引きがされ、現在の情勢にいたっているのです。かの大江健三郎もこの本から孫引きを行い「沖縄ノート」という本を書き、その中で赤松大尉を臆面もなく罵倒しています。

 (大江は、かの本を著すにあたって一度も裏付け調査をしていないようですが、)曽野さんは、現地での綿密な聞き取り調査を行い、集団自決という異常な事態に至る経緯を、赤松大尉の立場から、また住民側の立場からほぼ忠実に再現しておられます。曽野さんの基本姿勢は、ひたすらFACTS(事実)をのみ積み重ねるという誠に真摯な姿勢であり、それが揺るぎない大きな説得力になっているのです。そこには、巷間言われる非道な軍部が死を強制したというような状況は全くなく、
弾丸の飛び交う戦場という異常事態の中のボタンの掛け違いに主因があったように思います。軍も住民も同じく必死だったのです。
 そのようなことに思いを致さず、ただ単に「軍(国家)=悪」、「沖縄=被害者」として、「戦争を風化させるな」とか「沖縄の悲しみを知れ」とか叫ぶのは、どうなのでしょうか。
 なんといっても、まず事実をしっかりと踏まえるべきです。
 そのために、多くの人にこの曽野さんの本を読んで貰いたいですね。


 さて、この教科書問題は新生福田内閣の試金石になります。
 でも、答えは見えていますね。
 筋を通すことなく、サヨクにおもねった、ふにゃふにゃの妥協案のようなものでお茶を濁すのでしょう。
 その先には、とめどの無い暗黒の淵が見えるような気がします。
 再び、失われた10年の幕開け、です。



 次に、曽野さんの本の中で個人的に関心を覚えた箇所を抜書きします。(関心のあるかたはどうぞ)

■なぜ人々は自決したのか。そこにこの問題の大きな鍵がある。金城重明氏は、それは。戦争という異常心理に歪められた「愛」だと言った。敵にとらえられれば、男はなぶり殺しにされ、女ははずかしめられて海中に捨てられる。そのような恐怖は沖縄本島にもあった。米軍の進駐してきた当時の本土にもあった。私は石川県金沢市で米軍が来るということになると、改めて田舎に女子供を再疎開させた人々を、知っている。 そのような運命に会わされるくらいなら、自分の手で家族らを安らかに眠らせてやった方がいい。そこで、父や、年のいった息子たちはその役目を買ってでたのであった。更に、自決は気力のいる仕事であったから、男手のない家庭に対しては家族でない誰かがその面倒を見てやらねばならなかったのである。
(私;親近者に向かって斧を振り上げた、父や息子達の気持ちを思うべきだと思います。そのことが、その方々に対する慰霊になると思います。あの大集会は、これらの人たちを単なるダシにして、自分たちの別の目的を果たそうとしているとしか私には見えません。‥ところで、沖縄ではあの反対大集会に匹敵するような慰霊集会をやっているのでしょうか。)

■(曽野氏の聞き取りに答えて「赤松隊長」の言葉)
「正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは、頭にありませんでした。何故かとおっしゃるのですか。我々は特攻隊です。死ぬんですから、後のことは誰かが何とかやるだろうと思っていました。少なくとも、我々の任務ではない、という感じですね。」
(私;もともと赤松部隊は海上挺身隊という急造特攻艇の部隊であり、巷間言われる守備隊長ではありません。この辺にも住民側の思い違いが垣間見えます。)

■「軍は国民を守るためのものでしょうに」という発言を、私は沖縄で何度か聞いた。なぜ、ひとつの国家が戦争するか。それは、自国の国民(の生命・財産・権利など)を守るためではないか、という答えに現在のわたしたちは馴れている。しかし、その場合の国民というものの定義は明確にされていない。おそらく、全体としての国民なのであり、「大の虫」を生かすことなのであろうと思われる。
渡嘉敷島の場合、村民の中には日本軍の姿を見た時、「こんな小さな島にまで、守備隊の兵隊さんをまわしてくださって、ありがたい。」と言った老女を似たような感慨を持った人も多かったであろう。何も知らぬ庶民の感覚としては当然である。 しかし、赤松隊は決して村の守備隊ではなかった。むしろ島を使って攻撃するために来たのであった。出撃が不可能となり、特攻攻撃を諦めざるを得なくなった日以降、彼らは好むと好まざるとに拘わらず、島を死守することになったが、それとても決して島民のためではなかった。村民はおそらく「小の虫」であって、日本の運命を守るために犠牲になる場合もある、と考えられていたに違いない。
 (中略)
「慶良間列島の渡嘉敷島で、沖縄住民にス油断自決を強制したと記憶される男、どのように控えめにいっても少なくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に『命令された』集団自決を引き起こす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長」(「沖縄ノート」大江健三郎著)を今の時
点で告発することはやさしいが、それは軍隊の本質を理解しない場合にのみ可能なことなのである。 軍隊が地域社会の非戦闘員を守るために存在するという発想は、極めて戦後的なものである。軍隊は自警団とも警察とも違う。軍隊は戦うために存在する。彼らはしばしば守りもするが、それは決して、非戦闘員のために守るのではない。彼らは『戦力を守る』だけであろう。作戦要務綱領には次の
一文が明確に記されていた。
「軍の主とするところは戦闘なり、故に百時皆戦闘を以て基準とすべし」
渡嘉敷島の村民たちが、軍に保護を求めて陣地になだれ込んだ気持ちも自然なら、軍が非戦闘員を陣地内に保護するなどということも亦、あり得なかったのだ。それは、軍の機能として拒否するのが当然であった。
(私;曽野さん、さすがにするどい。)


-参考---
 (※)「産経新聞(平成18年8月27日)」記事から
 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

 

☆ひとりごと

19.8.11

出口のない海

 見たいと思っていた映画でしたが、タイミングが会わずに見られませんでしたが、たまたま、深谷市で無料映写会があり、おまけに当時の回天搭乗員の方の話もあるというので、遠路、見にいくことにしました。今日は、猛暑日。気温約37度。(薄くなった)脳天を突き刺すような暑さでした。

 映画は、よくできておりました。
 できるだけ史実に沿って淡々として物語を展開して行くという内容でして、ごく一部に引っかかるところがありましたが当時の雰囲気がよく伝わってきたと思います.。

 ざっとしたあらすじは次のとおりです。
 主人公の明治大学の野球部の並木投手(市川海老三)は、時局に背を押されて海軍を志願し、更には、周囲の空気に押されて特攻を志願し、回天に乗り込みことになります。厳しい訓練を経て、一旦出撃するのですが、突入寸前に機関故障のために、母艦の潜水艦から離艦できず基地へ帰投することになります。そして、終戦を前に訓練中の事故により死亡してしまいます。

 野球を通じて謳歌したかった青春が戦争のためにふいにされてしまった。その無念さ、せつなさがこの映画のひとつの柱になっているように思いました。しかし、映画では、最後の場面に大学(高校?)野球が行われている球場での試合のシーンが映し出され、このような彼らのお陰で、現代の繁栄、平和があるという描き方がされており、彼らの死は無駄ではないのだということが最後に伝えられているように思われました。
 この最後の球場のシーンで、なぜか私は涙が出てしまいました。画面は広々として華やかな球場で、観客の歓声の中をで幸せ一杯にプレーする球児たちの様子が映っているのですから泣くところではありませんが、回天という狭い艦の中で誰からもみとられることなく、一人ぼっちで死んで行った彼らのことをその画面にダブらせた時、その落差の大きさに胸が一杯になったのです。

 映画終了後、回天乗組員であった、深谷市在住の多賀谷さんという方が30分ほど講演をされました。昭和元年生まれですから83歳。
 ・回天の搭乗員選定に当たっては、留守家族に影響のない者を優先されたこと。
 ・撮影のために製作された回天が背筋が寒くなるくらい非常に良くできていること(シアトルにある本物の回天がモデルにされた。)
 ・回天は直径1mであるが、海老三の体格にあわせて1.1mで製作されたこと。
 ・搭乗に際しての装具は、時計、懐中電灯、射角表(訓練時は海図)の3点であったこと
 ・操縦訓練の最初の難関が「いるか運動」対策であったこと
など等、大変興味深い内容でした。
 

 係の方に聞くと、この猛暑日に、この映画会・講演会に集まった人の数は550人だったそうです。
 戦争についての関心が高まっている、と見てよいのでしょうか。
 それとも無料上映会であったからでしょうか。


 以下蛇足です。
 <射角表>
 回天の攻撃目標は、当初は停泊中の艦船でしたが、航行中の艦船も対象とするようになりました。航行中の艦船に会合(衝突)するのは、非常に難しかったと思います。通常、会合するためには、相手の進路・速力と自分の速力を基にしてベクトル計算を行って自分の進路を決定するという方法がとられます。回天の場合相手の進路速力がはっきり分かりませんから、おそらく接近しながら何回も修正を加え、最終的には「犬追い曲線」的に会合していったと思われます。私の海上自衛隊におけるわずかな経験ですが、艦艇部隊で行われる戦術運動(航行しながら横一線になったり、単縦陣になったり、所定の角度で雁行したりなどの艦隊陣形の成型訓練)では「運動盤」というベクトル計算用の作図用紙と定規・コンパスを使うのですが、慣れるまではなかなか大変でした。
 映画では、何らかの計算装置があるようでしたが、射角表というのは、補助的な数表なのでしょうか。いずれにせよ、護衛艦の艦上と異なり、劣悪な環境の中での作業は筆舌に尽くし難いものがあったと思います。

 <いるか運動>
 これに苦労したというのは良く分かります。
 ポーポーズとも言いますが、たとえば自転車のハンドルを走行中に左右に急激に振ると、大きく触れ出して制御できなくなることがありますが、アレです。
 回天で言えば、一定角度で潜行していくべきところを舵を深く切りすぎて過剰に頭が下げてしまい、あわてて大きく上げ舵を切ると、今度は上げ舵を切りすぎて海面から飛び出ようとしてしまい、あわてて下げ舵を切ってしまい、更に頭を突っ込んで…といった動きをしてしまうことです。これは、舵の適量が分からないため、過敏に舵をとってしまうことからくるものです。
 自分の姿勢が分かりにくいという回天の特殊性があった上に、促成訓練を終わっていきなり現物に乗るという状況もあったでしょうから、教官も学生もこれまた大変な苦労であったと思います。訓練時の事故も多かったのもむべなるかなです。

☆ひとりごと

19.7.5

特務艇(迎賓艇)はしだて

 海上自衛隊特務艇ASY-91「はしだて」で行なわれた洋上懇談会に、夫婦でお呼ばれ致しました。
 洋上懇談会は海上幕僚長主催によりこの時期に行なわれているものでして、海上自衛隊に対する協力者、支援者を招いてのパーティです。私も極めて微力ながら海上自衛隊に対する支援をさせていただいており、そのことはOBとしては当然のことなのでご辞退しても良いのですが、せっかくのお招きですので家内と連れだってご好意に甘えることに致しました。

 「はしだて」は排水量400トン、長さ62m、幅9.2m乗員29名の小さな「艇」ですが、海上自衛隊の支援者を広げて行くという意味では形に似合わず大変大きな役割を果たしていると思いました。以下、見聞記です。


 「はしだて」が係留している晴海埠頭まではタクシーで参りましたが、桟橋に着くと白制服の自衛官がてきぱきと訪問客をさばいており、舷梯(げんてい;岸壁から船にあがるための階段)の前では夫婦での記念写真の撮影が順番に行なわれ、舷梯を上り舷門に整列した当直員の敬礼を受け、上甲板に入ると飲み物がさっと差し出され、‥といった具合でした。慣れているというか、良く訓練されているというか、さすが海上自衛隊という感じでした。大変嬉しく、また懐かしく思いました。
招待客は、テレビでも良く見受けられる方々や大学教授等々でして、私が尊敬する小堀桂一郎先生もおられました。せっかくの機会でしたが、残念ながら長くお話をすることはできませんでした。(先生だけ特筆させて頂きます。)

 「はしだて」は、予定の18:20丁度に舷梯を格納し、18:30にはゆっくりと桟橋を離れました。
 左の写真は、乗員などにより舷梯がはずされているところです。中腰になっている黒ズボンの若い衆は、給仕役の隊員ですが、本来はこの「はしだて」の運用員だと思われます。

 


 陸上での「舫(もやい;船と岸壁をつなぐロープ)作業」を終わり、岸壁に整列する支援員。
 通常は、若い兵隊さんが行うのですが、今日は受付の作業をした上級幹部の面々です。海幕の総務課などの課員諸君だと思います。ご苦労様です。(彼らは、1時間半後の入港を待つことになります。)


 
 「旗甲板(はたかんぱん)」です。
 通常は、旗りゅう信号をするためだけのエリアなので、なにも無いのですが、本艇は迎賓艇ですので、木製の椅子が作りつけてあります。

 写真の左右に見える縦の筋は、旗を上げ下げする時に使用するロープ(ヤードという)です。1905年日本海海戦の際には、戦艦「三笠」のヤードに「Z(ゼット)旗」が掲げられました。


 左上を見上げると、メインマストに写真のような旗が掲げられています。
 これは「海上幕僚長旗」といい、本艇に海上幕僚長(大将;四つ星 four star )が乗艇している、ということを意味しています。
 海上幕僚長は、海上自衛隊4万人のトップでして現在は吉川海将です。


 桟橋を離れ、ベイブリッジへ向けて航行を開始したところで海幕長のあいさつ、幹部学校長の乾杯となりました。お二方とも、ユーモアの入った短い挨拶で大変好感がもてました。
 
 テーブルに載っている料理は、「はしだて」の調理員が作ったものです。
 海上自衛隊(海軍)は伝統として料理に大変こだわりを持っています。これは、外国訪問する機会が多く、訪問国の大統領をお呼びすることもあるので、料理に関しては特に力を入れているからです。


 「はしだて」はベイブリッジの下を通過し東京湾へ向けてゆっくりゆっくりと航行を続けました。私は、この会が東京湾クルージングと銘打ってありましたので、夜景のきれいなところを走りまわるのかと思っていましたが、気がつくとベイブリッジを少し遠くに見る辺りで、艇は航行を停止しており、パーティの間はずっとこの状態でした。
 考えてみれば、パーティですから物見遊山する必要はまったく無いわけでして、また、夜間の危険性もある東京湾内を走る必要も、これまた、まったく無いわけですね。


 私が感心したのは、給仕などの下働きに当たった若い隊員の挙措動作のスマートさでした。この手の立食パーティで大事なのは、飲みものを絶えず提供することと同様に、テーブル上に散らかった皿などを常に片付けることです。これが、非常に自然に行なわれておりました。どこか一流ホテルあたりで訓練したのではないかと勝手に想像しました。


 東京音楽隊から来ていたバンドもなかなかのものでした。普通の会場であれば、少しうるさく感じるのではないかと思いましたが、海の上ですし、聞こえるか聞こえないかという程よい音量でした。選曲もJAZZのスタンダードナンバーになっておりまして、本当に気持ちのよいひと時でした。


 機会があれば、ぜひまた行きたいと思っております。

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(↓の項目に続く)

 

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