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21.7.27

憲法9条は諸悪の根源/潮匡人/php
 憲法9条は集団的自衛権を許していないと、一般的に言われています。内閣法制局は、9条が規制している最小限の権限を越えるからだとしています。
 まず、これに対してこの本の冒頭で、著者はそれを全面的に否定します。その理論は次のとおりでです。

 フランス語で国家の自衛権は、個人の正当防衛と同じ単語である。これが通念である。
その正当防衛は次のように規定される(刑法36条)
 「急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するために、やむを得ずにした行為は、罰しない」
 すなわち、正当防衛(自衛権)は「他人の権利」を守る場合にも認められている。この点に着目しなければならない。
つまり、自己を守る「個別的自衛権」と他人を守る「集団的自衛権」ということであり、どちらも「固有の」権利、「自然権」であり、日本国刑法も、そう考えている。
 これは世界中の憲法や刑法がそう規定しているもので、「個別は良いが、集団はだめだ」と主張するのは古今東西、戦後日本だけである。日本では、自分のみは守るが、家族や友人が危険に晒されても助けない。これが我が家の家訓であるとされている。このことは法令の問題でなくそれ以前の倫理道徳の問題である。

 私も正当防衛の規定は、自己に関する捉え方しかしていませんでしたが、読むと確かに「他人」も含んでいるのですねぇ。恥ずかしながら知らなかった。 他人の権利も守る、これが法の精神なのです。
 現状、これを曲げて憲法9条を解釈している訳ですから、国民精神に対しても誤った方向へ向けて悪影響を与えているわけです。こういう点についても、これを改めて日本は普通の国にならなければなりません。

 このことが、現実の身につまされる問題になっているのが自衛隊の海外派遣における武器使用に関する問題です。
 著者は次のように述べます。
<引用>86p
「本来任務」として自衛隊を派遣する以上、集団的自衛権行使と武器使用の縛りを解くべきである。憲法上、それが出来ないのなら、憲法を改正すべきである。その上で、後顧の憂いなく自衛隊を軍隊として派遣して貰いたい。そうして初めて「多少の危険は止むを得ない」(小泉首相)と語る資格が生じるはずだ。もし、それが出来ないというなら、自衛隊を派遣すべきではない。誰の目にも明白に不合理な憲法解釈すら是正できない内閣に「聖域なき構造改革」も「美しい国」も実現不可能であろう。憲法解釈すら是正できない内閣に、憲法改正が出来るはずがない。
<引用終わり>

 そのとおりです。
 まず、内閣が範を示し内閣としての「覚悟」をしっかりと決めるべきです。

 著者は、単に法令解釈的に9条の非を唱えるのでなく、人間のあり方に照らして、ソクラテスの言葉を借りながら次のように説きます。
<引用>89p
 紀元前に、不当かつ不正な死刑判決を受けたソクラテスは、‥‥、平静のうちに死を受け入れた。
‥‥
 ソクラテスは「その(ある)行為がはたして正であるか邪であるか、また善人の所為であるか悪人の所為であるか、をのみ考慮すべき」と考えた。動物と違い、人間だけが正邪善悪にこだわる。その本質は紀元前から全く変わっていない。ソクラテスは国法を犯して脱獄を進める弟子のクリトンにこう諭した。
「一番大切なことは単に生きることそのことではなく、善く生きることである」

 「善く生きることと美しく生きることと正しく生きることは同じだ」と教えた。ソクラテスの教えは、今なお有効であろう。人間は、「単に生きる」のではなく、よく生きなければない。
 「われわれの達成しうるあらゆる善のうち最上のものは何であるだろうか」と問題提起し「それは幸福にほかならない」としたアリストテレスも「幸福なひととはよく生きているひと、よくやっているひとを意味する」と定義した。(『ニコマコス倫理学』岩波文庫)

 戦後日本人は師ソクラテスからなにも学んでしない。護憲と反戦平和を疑わず、「自己保存」しか考えない。本能だけで「単に生きている」。よく生きようとしない。「美しい国」と語るだけなら、改憲派とて例外でない。「美しく生きる」とは本来、「善く生きる」「正しく生きる」と同義である。壮士ソクラテスは身を賭してそう遺言した。

 日本国は、自分や自分の事がらのためには剣を帯びるが、悪を止め、善を守るために、他人のためには剣を帯び、剣に訴えようとしない。「自己保存の権利」だけを行使する。美しくも正しくもない。戦後日本は「一番大切なこと」を忘れている。
<引用終わり>

 酔生夢死の状態。これでよしとしているわけです。善く生きる美しく生きる‥これが人間の幸福であり、それは他人のために働くこと(利他)だということでして、「情けは人のためならず」という古くからの俚諺とも通じます。本来、こういう根本のところから我が行動方針、行動要領を導いていかねばならないのです。
 自己保存に汲々とするのは動物に等しい。つまり人間にあらず。
 きつい言われ方ですが、返す言葉はありません。

 この主張を章のまとめとして書かれたのが次のくだりです。
<引用>94p
 いわゆる「イジメ自殺」が問題化した昨年(平成18年)、多くの有名人が口々に「イジメは卑劣」「イジメを見てみない振りをするのも卑怯だ」と唱えた。だが、そう叫んだ大人たち自身はどうか。彼らの国はどうなのか。例えば、日本政府の台湾に対する姿勢はどうか。護憲派はイラク戦争を侵略と断じ、自衛隊派遣を共犯と咎める。だが彼らがフセイン政権の圧制を咎めたか。彼らが「一つの中国」政策を咎めた例を私は知らない。中国兵がチベットの尼僧と少年を射殺しても咎めない。見て見ぬ振りを続けている。そのような大人に「見て見ない振りをするのも卑怯だ」と語る資格があるだろうか。

 核を搭載した弾道ミサイルが日本や台湾に着弾してから行動しても、全ては遅い。いま必要なのは主張ではなくて行動である。
 我々は善く生きなければならない。「悪を止め、善を守る」のは人間の義務である。悪を「暴露」し、「力づくで妨害」しなければならない。我々の国家も正しく美しく振舞うべきである。だが「美しい国、日本」を実現するのは容易ではない。なぜなら憲法9条という壁が横たわっているからである。憲法9条が戦後日本人から奪ったもの。それは人間性に他ならない。そして自己保存本能だけが残った。我々は人間にとって「一番大切なこと」を失ってしまったのである。
<引用終わり>

 つまり、9条を手にした日本人は動物になりさがってしまった、という訳です。

 平和の概念について、非常に上手く書いてあります。
<引用>181p
 (キッシンジャーの外交論から)「‥平和そのものは直接的に目指されえないものなのである。なぜなら平和とは、ある種の条件と力の関係との表出だからである。外交が目指すものはこうした関係なのであって、前述の如く平和そのものではないのである。」
 日本国憲法前文は文字通り、日本国の生存という「運命を他の主権国家の継続的な善意に委ねて」いる。‥そして「平和そのもの」を「直接的に目指」す。「力」を放棄し、右にいう「外交」をしない。根本的に間違っている。
 「国家は、正義に対する自らの解釈ならびに死活的な関心事に対する自らの考え方のために、すすんで戦うときにのみ生存できるのである」
日本国憲法は日本国の生存可能性を放棄した。「すすんで戦う」ことを放棄した。日本国憲法には、いや戦後日本には「正義に対する自らの解釈」もなければ、「死活的な関心事」もない。あるとすれば「平和」という空疎な概念だけである。このような国からは、いかなる正義も道徳も生まれないであろう。
<引用終わり>

 チルチルミチルの青い鳥です。
 それがどこかにもともとから存在すると思っているが、そういう形では存在しません。
平和というのは、争いごとなどによって生起する、秩序の乱れがない状態なのです。すなわち、秩序を保とうとして行なわれる様々な努力の成果として現出する状態なのです。つまり、平和そのものを手に入れようと思ってもそれは出来ない話であって、平和を作ろうとして(即ち争いや災害などの目を積み続ける努力をして)初めて手にすることができるのです。
 その手段は、争いごとの絶えない国際社会(人間社会)にあっては、所要の軍備を持つということしかないのです。そういう構えをあらゆる国が持つことが、平和を作り出すために、悲しいかな現実的手段なのです。
このことは、安全と災害の関係と同じです。
 安全という状態はもともと存在しない。災害防止のためのたゆまない対策を採り続けて初めて現出する状態なのです。これを怠れば、たちまちに事故。全く同じと言ってよいでしょう。(健康と病気の関係も同じです。)

 おまけ
 コスタリカは戦争を放棄し軍備を持っていない、と巷間いわれいます。私もそう思っていました。ところが、
<引用>165p
ちなみに「神の名を唱え、民主主義に対する忠誠」を誓った人民代表が採択したコスタリカ憲法は常備軍を廃止しただけで、有事には徴兵し軍隊を編成できる。武装した国家警備隊も保有する。アメリカと同盟を結び集団的自衛権も行使する。外交上の道義を重んじ、「民主主義」(反共産主義)を貫く。それゆえ中国との国交はない。コスタリカの人民代表が日本国憲法を知れば、内心、軽蔑するのではないだろうか。
<引用終わり>

 コスタリカは、大変まともな国です。
 これで、日本だけが大変まともでない、ということが一層明確になりました。確かな知識を得ることが出来、これを喜ぶべきか、悲しむべきか。

21.7.5

ニッポンの蹉跌−偽りの歴史が日本を狂わす−本間正信/星雲社
 捻じ曲げられた近現代史を正す、というのが本書のテーマになっています。

 本書の冒頭、「はじめに」の項で最初に書かれている言葉は非常にインパクトがあります。
即ち、
「日本は再び戦争を起こさないようにしなければならない」から「日本は再び戦争を起こされないようにしなければならない」への発想の転換を‥平和を維持するために
と。

 確かにそうです。
 巷間、次のように認識されています。
「日本が戦争を起こし、自国国民のみならずアジア諸国にも大きな不幸をもたらし、そしてその故をもって敗戦時にその処罰を受けた。その罪は、いくら謝罪してもしきれないほどの大きさである。従って、もう再び戦争を起こしてはならない。」
 こういう印象を我々は心の奥底にしっかりと抱いています。

 もともと心優しい国民性であったところに、悪辣・狡猾な白人国家が先の大戦の戦勝を奇禍として、日本人に贖罪意識をこれでもかとばかりに刷り込んだその結果が今日まで脈々と生き続けているのです。
 日本人の心優しさ(お人よしさ)と白人どもの悪辣・狡猾ささが相乗効果を生んだ、恐るべき結果です。ただし、一方的に白人を責めるわけにはいきません。というのは、こういうことがいわば国際スタンダードだからです。そのことをしかと了解していなかった(今もしていない)我々日本人、特にわが国の中枢にいるいわゆるエリート層にも責任の一端があります。
 相手をいくら罵(ののし)っても、また身の不幸を嘆いても、それはまさに曳かれ者の小唄、その現実にしっかりと眼を向け、再びそうならないようにしなければなりません。
そう、
「再び戦争を起こされないようにしなければならない」のです。

 当初中国によって支那事変へ、ついでアメリカによって大東亜戦争(日米戦)へ、日本は戦争に引き込まれていきます。その上に、戦争直後には東京裁判という私刑(リンチ)場で、日本は侵略国家であるとの汚名を着せられ、7名もの関係者がその見せしめとして縛り首になります。更にその上に、その(偽りの)罪状を永久的に忘れないように、そしてまともな国家国民にならないようにするための様々な仕掛けを日本国、日本国民の体の中にDNAとして作りこまれてしまうのです。

 その仕掛けは色々ありますが、最も大きなものが「日本国憲法」です。
 法治国家日本の根幹に位置づけられ、国家の基本方針を示している憲法がおかしなものになっている訳ですから、そこから派生する法律、政令、省令、規則‥‥全ては偏向しています。そしてそれが日本国民の行動の全てを律する訳ですから、言われているところの「おかしな日本」であり続けるのは、自然の道理なのです。

 その押し付け憲法も、放棄または改正の機会がありました(平和条約発効の日;独立の日)が、結局それはなされませんでした。(政治家、官僚の職務放棄です。)そうして、ずるずると現在に至っているのです。

 私は、当時の情勢は、憲法を押し付けられ、それを受け入れざるを得ないようなものであった、という理解をしていました。しかし、この本によると、同じような環境にあったドイツはどうも日本の場合と異なっているようです。
 ドイツは、敢然と憲法の押し付けを蹴っているのです。

<引用開始>
 日本と同様、敗戦国であったドイツは憲法の制定を拒否し、単なる基本法の制定にとどめたのである。当時占領下にあったドイツは、占領軍の憲法制定命令に対して西ドイツ11州の代表者たちは一致して反対し、次のように主張した。
「主権も無い、言論の自由も無い(占領下の日本も同様)占領下のわれわれが、どうして憲法を制定することができるか。もし、占領軍がドイツ国民に対し憲法の制定を強要するなら、我々は一切の占領政策に対する協力を拒否する」と。
 このように強硬に主張して米国、イギリス、フランス三国の軍政長官らをしてその正論に服せしめて単なる「西ドイツ基本法」を制定するにとどめさせたのである。ドイツの政府指導者は、その上、その基本法の前文に「ドイツ国民は、過渡期における国家生活に新秩序を付与するため、この基本法を制定する」と記載し、更に基本法の末尾の第146条に「この基本法はドイツ国民が自由なる決定によって議決した憲法が効力を生ずる日において、その効力を失う」と規定して、軍事占領下におけるドイツ国民の主体性と国の最高法規たる憲法というものの尊厳を守ったのである。
 これに対し、日本の場合、政府の松本国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会は、先述のように、明治憲法の抜本改正を拒否し、マッカーサー草案に対しては日本国の名誉をかけて抵抗したところであるが、学者や知識人のバックアップもないまま、占領軍に押し切られてしまったのである。当時の学者、知識人の多くは、‥(略) ‥マッカーサー草案の日本への押し付けを後押しする始末であった。
<引用終>

 筋を通そうとはしたが、結局は力及ばなかった、ということのようです。
 既に占領政策がうまく行っており、世論の形成にまで至らなかったという、敵ながら天晴れ、我ながら情けない、ということです。やはり、日本人はドイツ人と違って初心(うぶ)だからでしょうか。そんな繰言をいってもしょうがありませんが、この点についてしっかりと意識に上せることが絶対に必要です。

 さて、もう一点、感じたことを書き留めておきたいと思います。
 アメリカの占領政策の基本方針は、「日本を骨抜きにせよ」ということでした。
 なぜそうしたかというと、日本が凄い底力を持っているので、再びアメリカの敵となる恐れがあるから、と一般に考えられております。
 確かにこれは一面ですが、この本を読みながら、それだけではないのではないかと思いました。
 もちろん、物事は単純ではないのですが、もうひとつの大きな動機として、アメリカが犯した罪の隠蔽というのがあったのではないでしょうか。パールハーバーに至る開戦の陰謀、戦闘中の残虐行為(捕虜虐待や最たるものとしての原爆投下など)、そして、裁判の名を借りた私刑(リンチ)‥これらのことをアメリカは歴史の中に埋没させたかったのです。このことも非常に大きいと思います。

 いつも思いますが、私たちは、もっと世間並みに狡猾になければなりません。祖先が、そして我々が汗水たらして作り上げた有形無形の富が、狡猾な外国人たち(白人、支那人ら)によってむしりとられているからです。筆が少し滑りましたが、狡猾になれというより、世界は狡猾であるということをしっかりと認識してそれに対応出来るようになれ、というのが適当でしょう。

 そのためには、どういう努力をすべきか。
 答えは、「歴史」を勉強する、ということに尽きるような気がします。
 とにかく我々は歴史を知りませんし、知ろうとしていません。
 まずは、この大事なところを変えていくべきだと、しみじみと思います。

21.6.5

音をたずねて/三宮麻由子/文芸春秋
 この本を読み始めた最初は分かりませんでしたが、著者は全盲です。
 そのくらい、この方の文章は非常に読みやすく、その場の情景描写等も盲人であることを全く感じません。むしろ、常人よりも表現の仕方というか説明の仕方が上手いかもしれません。本人は見えていないのに、まるで見えているかのような表現の数々‥。じゃあ「見える」っていうのはどういうことなんだろうか、と改めて考えさせられます。

 この世の中はモノとコトからなっているといえます。
 私たちは、モノが「見えるから」、何もかもが分かると思ってしまっています。そして、その見えるモノに最上位の価値を与えています。確かに、モノが見えることによって得られる情報量というのは莫大なものです。しかし、ちょっと待ってよ、とこの本は私たちに語り掛けているように思います。

 見えるモノ以外の価値はそんに低いのか。見えないモノ(=コト)の価値だって、少なくともモノと同じくらいの価値を与えて良いのではないか。いや、ひょっとするとそれ以上のものかもしれない。端的な話し、人の命(=モノ)より大切なもの(例えば名誉、忠誠心、愛などというコト)があるのかないのか、ということが大真面目で議論されたりするわけですから、常にモノが上位にあるとは断定できません。私たちは、モノがなまじ見えるものだから、低レベルのところで満足しきっているのかもしれません。

 つい先日、盲目のピアニスト辻井伸行さん(20)が米国の第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝しました。日本人として初だそうです。(こういってはなんですが)たまたま眼が見えなくっても、こういうことができるわけです。いや、むしろ、眼から入ってくる雑情報に惑わされること無く、芯から音を追求できているのかもしれません。

 その後の記者会見で、記者の(ちょっと意地悪な)質問「眼が見えるとしたら、何が見たいですか」に対して、本当に素直に「両親の顔だ」と答えていましたが、これにはほろっとしましたし、卑屈なところが全く無い心の広さ、人間としての大きさを感じました。眼が見えないことを「障碍」というけれども、全然違うのですね。彼は、コトの世界において、単なるピアノ芸術家というだけでない人間として、我々のずっと前を歩んでいるように見えます。(実際、今後立ち向かうのは「「ハンディではなく、偉大な作曲家たちです」と言っています。)

 この本の著者も、同じです。
 眼からの情報は閉ざされているけれども、耳や触感覚のからの情報の入手量、処理量はそれに優るものがあり、上の辻井さんと同じく、総合的情報量としては、我々のそれをはるかに凌駕しているのです。
こういうことからすると、モノは見ているけれどもそこに潜んでいる大切なコトを見ることが出来るかどうか、本当はそれが大事だ、ということではないでしょうか。

 ピアニストの辻井さんは、記者会見で次のようなことを話しています。
 「花火に行っても、心の中で色とりどりの花火が開く。母(が説明してくれること)のおかげで、何でも心の目で見られるようになった。不自由はありません」

 この本の著者も、花火見物の様子を「夜空の響き」という文章の中で次のように書いています。
 「花火を聞くとすぐにお気づきになると思うが、花火の音には大雑把に言って5種類ほどある。打ち上げ、笛、破裂、火花、それから爆竹のような連鎖的な爆発音だ。私はそれらの音の聞こえる場所や工程を聞き分けて、打ち上げられた花火が破裂したり、歌にあるように『空一杯に広がった』光景を想像する。といっても実際に打ち上げ花火を見たことはないので、うっすら残っている手花火の赤い火の記憶と、星の光の記憶を組み合わせたような感じといえばよいだろうか。
 でもさらに正確に言うと、そんな光の記憶をたどっているのは最初の数発ぐらいまでで、後は音楽を聴くように爆発と打ち上げのリズムに体を委ねてしまう。スポッと低く鈍い音を立てて打ち上げられた花火が頭上はるか彼方でパフッと破裂し、そこからシワシワシワシワとキクやサクラの花が散ったりするのも、私には旋律のない3次元の音楽である。その音は果てしなく自由に動き、空という空間を宇宙まで響かせてくれるのだ。」

 音で花火を楽しむ。
 私には、ちょっと想像つかないことでした。

 そして、
 「長岡が山に近いせいだろう、ここの花火は打ち上げられた音が、ドン、トン、ポン、ズン、パン、と四方に反響しながら散っていく。あの音はどこで空気に溶けるのだろうか。ほっておいたら球のままで永遠に大気圏を放浪してしまうのではないかと思うほど、その音の球は大きくはっきりしている。まるで一つの尺球がいくつにも分裂して、空で増えているような錯覚にさえ陥る音の分裂なのである。」

 こういう感覚は、全く私たちの知らないコトではないでしょうか。
 この文章は、こう締めくくられます。
 「そして最後に、『音のしない花火』が大会のフィナーレを飾った。それは、広い土手に鈴なりに座った人々が、花火を打ち上げてくれた職人さんに向かって、一斉にペンライトを振って『「ありがとう』を伝え、職人さんもまた光で返事をするという、恒例のエール交換なのだそうだ。ペンライトがない人は、携帯電話を振ってバックライトを光らせているという。
 長岡の花火は、ただ美しいだけのショーにとどまらない。花火の中に人々が暮らし、花火を通してみんなが心を一つにして時を過ごしている。それは生きた花火なのだ。盛大であってもなんとなく遠い存在に思えてしまう大規模な花火大会にはない心の通いあいが、そこにはあった。」

 いかがでしょうか。
 コトがしっかり捉えられて、その気持ちが上手く表現されていて、いいなぁと思いませんか。

 別の章「ピアノの故郷をたずねて」という文章では、ピアノ工場の内部様子を絵の様に情景描写したあと、
 「ピアノが何かを食べて育っているとしたら、その御飯は時間と愛情だろう。これだけの生産時間とスタッフの皆さんの愛情、そしてそれを弾く人の愛情である。」と。
 たとえが良いですねぇ。
 盲人が随筆家になられたのではなく、随筆家がたまたま盲人だった、といっていいかもしれません。

 著者は、この本では、「音」をキーワードにして様々な場所を探訪し、それを随筆にまとめるということをされているのですが、鼈甲屋を訪れた際のことが次のように書かれています。実は、著者は盲目のピアニスト辻井さんとおなじくピアノをたしなまれるのですが、私も楽器をやったり陶芸をやったりしている関係上、大変共鳴した部分です。
 
 「鼈甲が一気に身近な存在になったとはまだいいきれない。でも、磯貝さん(鼈甲屋さん)たちが鼈甲細工に深く魅せられ、情熱を傾ける気持ちには実感をもって共感できた。ピアノの曲を何回と無く弾き込んで表情をつけるとき、毎回変わっていく曲想に魅せられ、けっして飽きないという経験があるからだ。ピアノだけではない。折り紙でも陶芸でも植木の手入れでも、自分自身の手の中で刻々と姿を変え、表情を深めていく作品を見つめながら心を集中していく気持ちは、物作りの根幹をなすものだろう。」

 音楽も含めて、行き着くところはものづくりの楽しさ面白さという人間の本能的な部分なのですね。
 それは、盲人、常人を全く問わないコトの部分です。
 こういう感動のようなものをたくさん感じ取りながら生きていきたいものですね。

 大変、いい本でした。

 

21.6.1

やがて日本は世界で「80番目」の国に堕ちる/潮匡人/PHP

 著者の潮氏は、若手の保守論客です。非常に理性的で、もの静かに根拠を示しながらの論の建て方には大変説得力があります。昨今、口角泡を飛ばすといった風な論者が多い中で異彩を放っています。
出身は早稲田法学部。航空自衛隊3等空佐で退職。現在帝京大学短期大学准教授。

 この本は、福田内閣当時に書き始められたものだそうです。あの時の情勢を見れば、こうも言いたくなるのは分かります。
 題名の「80番目‥」というのは、1956年12月18日、日本がやっと国連に加盟したときの加盟の順番の数字です。その後、日本は劇的な経済復興を遂げ、世界屈指の経済大国になりました。しかし、今やその経済も低迷をし、そればかりで無く、その他多くの面で日本の評価は下がり続けているといってよいでしょう。つまり、日本は国力が衰えて続けており、その結果、国力80番目の国になるのは間違いない、と著者は言うわけです。
 
 この本では、首尾一貫、国力をキーワードにして日本が語られていきます。
 私は、自衛隊で様々な教育を受けましたが、幹部学校高級課程というところで、国力について勉強した覚えがあります。その課程での一つの研究テーマとして、わが国の国家戦略を考えるというのがありました。その際に、まず言葉を定義していかねばならないのですが、その一つに国力というものがあります。国家としての力の程度を測定する尺度なのですが、これを具体的に表すのは極めて困難です。細かくは覚えていませんが、結局は何かの本の丸写しをせざるを得ませんでした。国力を定義するのは難しい、というのがその時に得た結論でした。

 さて、この本では、潮氏もやはり他所から持ってきた次の式を提示します。(勿論、一般に完全な方程式を編み出すことは困難、と断った上です。)

Pp=(C+E+M)×(S+W)
国力=(人口と領土+経済力+軍事力)×(戦略+実行する意思)

 これをざくっと見ると、「ハード的な力」に、「知恵と精神というソフト的な力」を掛けあわせたもの、ということです。
大事な点は、立派な筋肉を持っていても頭がスカスカだと、国力はゼロである、ということです。

 他で読んだ覚えがありますが、(麻生さんも言うように)日本はとてつもない底力を持っているのですが、日本人にそれの自覚が無く、謙譲の美徳を発揮する上に、必要のない贖罪意識をにさいなまれており、まったく本当の力を発揮できておりません。これが身内だけの内輪の話で終わればよいのですが、国外では絶対に通用しません。おまけに自分の自覚以上に図体が大きいものですから、とにかく目立っています。このような姿というのは外国人から見ると大変奇異に映るわけでして、端的に言えば「阿呆」なのです。まさに頭がスカスカの大男といった有様なのです。

 これが、戦後ある時期から目立ち始め、かの福田康男代議士が総理におさまったときにその最高潮を迎えたといって良いでしょう。潮氏がこの本の執筆に燃えたのは、こういう情勢下にあったからでした。その後を麻生氏が継ぎましたので、正統派首相の誕生、ということで一旦執筆を中止したそうですが、田母神前空幕長解任事案で、再度燃えたということだそうです。
 確かに、世の中がドンドンおかしな状況になっています。日本国、日本人に係るあらゆる指標がマイナス方向に変化しています。経済のみならず、政治、軍事、人口、学力、国家意識‥、やがて80番目というのもむべなるかな、です。

 その原因は色々と上げられます。
 私は、終戦直後に施された占領軍による諸施策がその根源にあり、これが最も大きいと思っています。従ってここを直せばかなり改善される。我々日本人はまずその部分をしっかり認識し、そしてそこからの脱却を早くしなければならないと思っていますが、潮氏も同じような視点に立っています。

 潮氏は、多くの指摘をしていますが、次の点は特に共鳴をしました。
 それは、この本の後段で触れられている官僚天下り問題です。「公」務員でありながら、「私」を優先する心情というのは戦後の悪弊の最たるものといってよいでしょうが、これがなかなか直りません。自ら天下り先を作り、そこにお金(税金)を流し込む仕組みを作り、自らそこに天下っていく訳です。今、政府は、この状況を法律で縛ろうとしていますが、頭の良い官僚たちは、必ずそれを骨抜きにします。そして、それに対して政治側も強いことがいえません。いってみれば皆がお仲間ですから、なかなかうまく行かないのです。この状況と言うのは、お金の無駄もさることながら、国民のやる気を阻害するという点において、それに優るとも劣らない計り知れないダメージとなっていると思います。
 この状況を変える方策について潮氏は次のように述べています。私も同じように考えていましたが、自衛官であったらそう考えるよなぁ、といったところです。

<引用>
 関連法人へ天下りしている国家公務員は、2005年段階で2万2千人。2006年には2万8千人に達した。天下り先は4500法人、そこに流れた金は同年上半期だけで5兆9千億円に上る。天下りが官民癒着の温床と言われる所以である。
 広く知られたとおり、天下り官僚は特殊法人等で高額の報酬を手にする。その金額は公表されない場合が多い。わずか数年の勤務にもかかわらず、高額な退職金も手にする。元をたどれば全て税金である。
なぜ天下りが無くならないのか。
<引用終わり>

 その最大の理由はキャリア官僚の早期勧奨退職慣行である、‥と筆者は続けます。
 もう一つ大事なポイントが、昇任の原理にあります。それは、能力による昇任ではなく入省年次による昇任が行なわれるという点です。どんなに能力が高くても後輩は先輩を追い越せない、というものです。従って、次官などのトップに同期のうちの一人が補職されたら、他の同期の者は早期勧奨退職をさせられてしまう。だから、退職後の面倒を仲間内で見てやろう、とういうわけです。
 これは一面、能力軽視の昇任制度のように見えますが、もともとが非常に能力の高い母集団ですからその中から選ばれる人はそれなりの能力(といっても冷静に見れば偏った能力ですが)を持っていますので、能力軽視とはならないでしょう。しかし、そこで行なわれているのは大いなる無駄なのです。
 自衛隊ではそんなことは行なわれていません。優秀な人材は、先輩を追い抜きます。従って、後輩に対してため口を利いていた先輩は、ある日を堺にして敬語を使わねばなりません。完全な能力主義です。同じ職場でもそれはあり得ます。私も両方の立場を経験しました。しかし、先輩でありながら部下についてくれた方にはしかるべき尊敬の念をもって、また、後輩の上司にはしかるべき節度をもって、皆は接しています。実際数年の差というのはほとんど誤差の範囲ですので、ほとんど問題ありませんでした。
 各省庁における人事も自衛隊を見習えばよいのです。
 採用人員を絞り、定年まで能力に応じた配置でしっかり働いてもらえば、無駄が出ません。そして大事な点、天下り先も作る必要がなくなります。
 上記の11兆8千億円(単純に2倍した年間分)というお金の話だけでなく、国民のモラルの面でも相当なメリットがあります。出来ない話ではありません。その証拠が自衛隊。昔からやっています。

 著者は、「諸悪の根源憲法9条」という本も上梓しておられますが、それも読んでみたくなりました。

21.5.20

日中戦争−戦争を望んだ中国望まなかった日本/北村稔・林思雲/PHP

 日中戦争(正しくは支那事変※)は満州事変に引き続き、我が国による中国侵略であるとされております。いかにも好戦的な日本が中国大陸を席巻し、悪虐の限りを尽くしたような印象を私たちは持っています。というか、持たされているといったが正しいといって良いと思います。小中高校で、たっぷりとそう教えられているからです。かくいう私も、脳の奥深くに染み付いていたのは、そういう印象です。

 しかし、実体は、そうではありません。まさに、この副題が述べるとおり、中国(を始めとする米ソなどの関係国)が戦争を望み、日本は「やむなく」戦争に引き込まれていったというのが実情であるといってよいのではないでしょうか。「やむなく」というと格好良いですが、実体は、定見無く、時の「空気」に流されながらずるずると戦争を続けた、というのが合っているかも知れません。その辺の消息を、東京裁判において訴追された一人である賀屋元大蔵大臣のコメントがよく表しており非常に興味深いです。

 「なにせ、アンタ、ナチと一緒に、挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう?そんなことはない。軍部は突っ走ると言い、政治家は困ると言い、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画もできずに戦争になってしまった。それを共同謀議だとは、お恥ずかしいくらいのものだ。」と。

 すくなくとも侵略などとは言えないような状況であり、むしろ、中国の強い意志が働いていたことによるということが大きいと思われます。
 その意味で、本書のこの副題「戦争を望んだ中国望まなかった日本」というのは、ぴったりの表現です。

 さて、本書の内容ですが、支那事変と核とした日中関係及び米ソ独の関係が非常に分かりやすく述べられいます。必ずしも詳細な記述ではないのですが、要点が論理的に整理されて述べられているために、時の情勢が良く理解でます。

 「日中戦争」というと、日本と中国が1対1で戦争をしていたように思い、挙句に、その中国に悪いことをしたという捉え方になってしまうのですが、実際はそうではありません。この意味ではこの名称を使用するのは適当でないと私は思います。当時の中国には統一した政府はなく、蒋介石、汪兆銘、毛沢東がそでぞれに政権を打ち立てており、それぞれの思惑が渦巻く混沌の地であったのです。更には、それに、ドイツやアメリカが色濃く影響を及ぼしておりました。表面的には、日本は国民政府(蒋介石)と戦っているのですが、ことは簡単ではなく少なくとも「日中戦争」という捉え方で済む話ではなかったように思います。

 興味を覚えた事項が2点ありました。
 いずれも、中国人のものの考え方に関することです。
1 愚民論
 簡単にいうと、中国人は人間を「大人」と「小人」に区分する。前者は知的エリートであり小人を支配する。小人は、「知」を持たず持たされず、肉体をその全体の価値としている。現代においても、このことは変わることなく、都会の一部の富裕層と地方の大部分の農民が、これに対応する。
 この考え方は、孔子に由来する。

<引用>
 孔子は、知能の高低を基礎にして人間を3種類に分類できると考えた。「生まれながらに知る者」、「学んで知る者」、「学んでも知らぬ者」である。絶対多数の民衆は「学んでも知らぬ者」なのであり、これらの民衆は本来の知能に欠陥があるため支配階級になる資格はなく、被支配階級として、「生まれながらに知る者」と「学んで知る者」に従うだけである。彼らは、士大夫階級が作ってくれた生活規則、道徳規範、法律規範に従って生活する存在である。
‥‥
 中国で数千年も愚民政治が続いてきたのは、統治階級のエリートたちが、人民は限りなく愚かで政治的自覚と能力に欠ける愚民である、と考えてきたからである。
<引用終わり>

 支那事変においても、中国兵は極めて弱かったという事実があります。これは、中国軍が近代化されておらず、蛮刀を振り回すしかないような旧態の装備と思想しかなかったからだと、私は漠然と思っていましたが、そうではなく、その原因はこの愚民論にあるようです。

 つまり、軍隊においても、士官と兵については、上記のような思想があり、兵は愚民として扱われました。一方、士官についてはそうではなく、実際にそこそこの能力を有する人材がいたようです。しかし、肝心の兵については、これを教育するなどの発想はなく、肉体的対応力があればよい訳ですから、極端には、その辺の壮丁を拉致して数を揃える等のことを実際にしたようです。従って、兵はなんとか逃げることのみを常に考え、士官はこれを逃がさぬことを考えなければなかった、ということだそうです。これでは、たとえ優れた装備を持っていても勝つのは困難です。
 
 支那での戦いでは、日本軍が精強であったのも確かなことですが、中国兵が兵隊としての体をなしていなかったことも確かなことのようで、この2者があいまって、寡をもってよく衆を制した、ということだった訳です。

2 避諱(ひき)
 儒教の徳目で、「忠、孝、礼、仁」と並ぶ徳目で、避は避けること、諱は隠すことの意味。

<引用>
 儒教は人々に対し、偉人や賢人によって国家を管理すれば長い安定がもたらされ「乱世」の出現を避けられる、と教えてきた。
 しかし偉人や賢人は神ではない。彼らも誤りを犯す。彼らの道徳性により社会の安定が保たれているのであれば、偉人や賢人が誤りを犯せば社会の安定は動揺する。したがって社会の安定を保とうと思えば、人々は出来るだけかれらの誤りを隠し、その威信を保全しなければならない。
 偉人や賢人の過ちを隠せばかれらの威信が保全できるのでああれば、彼らの功績を古代に讃えてその威信を高めるのも、国家の安定を保証する一つのやり方である。したがって、「誇張」と「避諱」とは、同質の行為の両面である。中国人は偉大な人物のために「避諱」する(隠す)と同時に、偉大な人物を殊更に称賛するのである。
‥‥
 中国の伝統的な道徳観は、他人のために嘘をつくことに反対せず、むしろ他人のために嘘をつくのを励まし誉め讃えるのである。中国人は子供の頃から、偉大な人物を国家のためには、「避諱」し虚言を弄せ、と教育される。その結果、人々は虚言を弄することが不道徳だとは感じなくなり、虚言を弄する習慣が養われてしまう。
<引用終わり>

 これにより、事実に反していても国家のためであるなら、なんでもありということになり、むしろそれがオーバーであればあるほど愛国の証しなるということなのです。例えば、

<引用>
 1946年に中国政府が南京大虐殺の死者の人数を調査したとき、南京市民は愛国の熱情を一気に高ぶらせ、競って誇大な数字を述べたて事故の愛国感情を表現しようとした。日本兵が一人の中国人を殺すのを見たという人物が、「一人の日本兵が一人の中国人を殺すのを見た」と誠実に話したとすると、その人物の愛国感情は深くはなく、国に報いる情熱も十分でないということになる。愛国の気持ちを表そうとすれば、日本兵が殺した人数を誇大に言わなければならない。そして、日本兵の殺した人数を誇大に言えば言うほど、日本人に対する大きな恨みを表現し、愛国の気持ちを深く表現するのである。

 (こうして、愛国虚言が続出することになるのです。
 続けて、)

 中国で科学が誕生しなかった大きな原因は、中国の避諱文化にある。中国人からみると、「真実」は決して重要ではなく、重要なのは偉大な人物と国家民族の擁護なのである。必要ならば真実を投げ捨て、偉大な人物と国家民族を擁護しても構わないのである。
 西洋の歴史学者は、歴史の真相追及を歴史的研究n目的としている。しかし、中国の歴史学者は、国家の姿を擁護することを歴史研究の第一の目的としている。中国の学者が編纂する歴史書では、避諱が原因となり、国家の体面に不利な数多くの歴史事件が隠され、書き改められる。こうすることにより、中国のために「独立、光栄、正確」な国家像を打ちたてようとするのである。
<引用終わり>

 中国人はうそつきだといって我々がののしっても、彼らは全く痛痒を感じない訳です。実は、心底それを誇りに思っているわけですから、そこに共通の認識は存在せず従ってコミュニケーションは存在し得ません。
 中国人を同文同種の民族と考えてはならず外国人と看做さなければならない、とは良く言いますが、ただの外国人ではなく宇宙人に近い存在と捉える必要があります。私たちは、それほど警戒をし深く認識しなければならないのです。


※「支那事変」の呼称について※
 呼称は「支那事変」が正しく、「日中戦争」は、戦後使用されるようになって定着したようです。しかし、上でも述べたように、単に文書上の問題ということでなく、実体として、「『日中』の戦い」であったというより「『支那』という場所での争い」であったという捉え方が適当です。「支那事変」という呼称を用いるべきだと私は思います。

 参考に、文書上はこうなっています。
 まず、昭和12年9月2日の閣議決定により、
「事変呼称ニ関スル件」については「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト呼称ス」とされ、
その「理由」として、
「今回ノ事変ハ北支蘆溝橋附近ニ於ケル日支兵衝突ニ端ヲ発シタルモノナルモ今ヤ支那全体ニ及ブ事変ト化シタルヲ以テ其ノ呼称モ名実相伴フ如クシ国民ノ意思ヲ統一スルノ必要アルニ依ル」
とされています。

 さらに、「大東亜戦争」の呼称に関する昭和16年12月12日の閣議決定では、
「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」は、
第1項で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」
とされており、
ここでも、日中戦争という呼称は(当然ながら)なく、大東亜戦争のなかに含められることになっています。

 NHKの扇動番組「ジャパンデビュー」で、「日台戦争」なる珍語が使われていますが、そんなものは実体としても用語としても存在しません。NHKはこのような言葉を使って、国民をミスリードしようとしている訳です。
 言葉は大事です。

21.5.5

真珠湾<奇襲>論争/須藤真志/講談社選書メチエ

 真珠湾奇襲に始まる日米戦争は、ルーズベルトの陰謀により引き起こされた、という説があります。つまり、ルーズメルトは何もかも知っていて、彼が日米開戦をコントロールしたというものです。
 この本は、これに対する反論になっており、「陰謀論は成立しない」と書かれております。

 しかし、通読してみて、どうも説得力が弱いように感じました。
 細部について書きませんが、論理的でない箇所が散見されるし、反証の証拠が適切に提示されておりません。

 この本では「ルーズベルトはなにもかも知っていた」という命題を立てているのですが、そもそもルーズベルトが何もかも知っていた等と言うことはないだろうと思われます。いくらなんでも、そこまでのことはないでしょう。こういう、ありもしないようなことをしゃかりきになって否定してみせてもしょうがないのではないか、という気がしました。

 例えば、ルーズベルトが日本海軍の真珠湾攻撃を知っていたかどうかということですが、おそらく相当の絞込みをして、その可能性を一つの選択肢として考えてはいたと思います。日本に引き金を引かせる情勢を作為していた訳ですから、近く、攻撃を仕掛けてくるという確信に近いものを持ち、場所については真珠湾の可能性もあるということぐらいは想定していたでしょう。

 つまり、何もかも知っていたということはないであろうが、それに近い相当のところまで把握していたろうと思われます。なぜなら、フリーハンドは米国側にあり、シナリオの作成とその実施に向けての努力をやっていたからです。
 このレベルではないでしょうか。

 そして、そのような情勢のなかに、世間知らずでお人よしの日本が嵌められていった、というのは大筋として間違いありません。したがって、そういう意味では、陰謀に陥ってしまったといってよいと私は思いますが、完全にルーズベルトがコントロールしたというのは、どうかと思います。

 筆者は、日米の相互にパーセプション(認識)ギャップがあったと書いていますが、確かにそうもいえるのですが、しかし、戦争に向かう歴史の流れを俯瞰すれば、どちらかと言えばアメリカ陰謀説に近い見方を採るのが妥当のように私は思います。
 この本は、なにか細かい、さして重要と思われない部分を殊更に大きくして、それをむりくり解説を加えようとしているように思えました。

 ただし、この本の中で、私が良書であると思った「真珠湾の真実(スティネット著)」という本がさしたる内容のものではなく、そこに示された根拠も実は薄弱である、ということが書いてありまして、この点についてはその目でもう一度読見直してみたいと思いました。

21.4.30

旅順攻防戦/別宮暖朗/並木書房

 著者の名前は「べつみやだんろう」と読みます。いわゆる歴史学者ではありません。東大経済学部で西洋経済史を専攻し信託銀行などの畑を歩いています。現在の肩書きは「歴史評論家」だそうです。

 西尾幹二氏にしろ、渡部昇一氏にしろ歴史の専門家ではないのですが、歴史の流れというものを非常に分かりやすく説いてくれる点で、専門家といわれる人たちと大きく一線を画しているように思えます。それは、やはり、専門家が関心を持つ部分とそうでない、いわばアマチュアが関心を持つ部分が違うからのように思えます。専門家は、学問的、教条的な見方になりますが、そうでないアマチュアは、生活者あるいは国民として、自らの独自の視点で事物を見るからではないでしょうか。もちろん、アマチュアといっても完全など素人ではなく、学究的な側面と、このような、しっかりした自らの独自の視点というものが備わってなくてはなりません。人間を見る上での何か透徹した思想とか、わが国を素直に愛する気持ちとか、そういうものがバックボーンにあって、それを基準にして歴史もじっくり観察できるという人でなくてはならないということだと思います。

 こういう観点からいうと、この別宮暖朗という人は、関連する歴史的事実をよく吟味し、また自分に足らないものはしかるべき人材(この本の場合、兵頭二十八)を師として、その意見などを十分に咀嚼するなどして、論考を進めており、非常に説得力のある、よい内容のものを完成させていると思います。

 さて、この本の内容ですが、標題には「『坂の上の雲』では分からない」という装飾語がつけられ、副題として「乃木司令部は無能ではなかった」とされていることから分かるように、私たちの愛読書であった「坂の上の雲」に対する反論書になっています。
 
 坂の上の雲の中の乃木将軍は、旅順攻撃にあたっていたずらに将兵を突撃させ、結果的には勝利したものの、無駄死にを強いた「無能の将軍」として描かれております。私も、若いときにこの本を読みそのように強く理解しました。
 坂の上の雲は、近代日本が坂の上に見える雲を目指して、邪悪な西欧諸国に勇敢に立ち向かい、輝く雲を掴むという物語で、自虐史観に染まりきっていた我々を勇気付ける素晴らしい著作ではありました。しかし、前述のような乃木将軍(陸軍)を貶めたばかりでなく、日露戦争を栄光のものと描いた対比として、大東亜戦争やこれを戦った軍部(特に上層部)を非難することになっている点については、ある意味問題作といわなければならないと思います。これを「司馬史観」ともいいますが、この点は、残念なことでした。

 著者は、この司馬史観全体を積極的には標的としていませんが、乃木将軍非難の部分に着目をして、乃木将軍の擁護を、軍事学的な観点で行なっておりまして、私もこれを大いに納得しました。すなわち、乃木将軍は決して無能ではなかった、ということです。

 この本の、最初の部分は別宮氏と兵頭氏の対談になっています。いわば、軍事技術、軍事工学をベースにして戦史を語るべし、ということをアピールするもので、想像や思い込みによる論述を戒めています。
 
 例えば、明治以来使用された三十八年式歩兵銃は、(いわゆるサンパチ銃として知られていますが、)今、その評価は非常に劣ったものとして定着しています。しかし、それは大きな誤りであって、兵頭二十八氏の研究によれば、三十八式歩兵銃は有坂成章(なりあきら)という銃砲に関する天才的技術者(日露戦争当時、技術審査部部長、技官。)が、日本人の体格等を基礎において設計開発したもので、非常に命中精度の高い世界に冠たる小銃であった、というのです。この銃は、当たるばかりで無く、操作運用上も含めて総合的に優秀であったそうです。こうして、ロシアの小銃を凌駕するものであったことが、陸上戦闘を優位に導いていったのだということです。(銃についての細部は、なぜそれが悪口の的になっていったかも含め、兵頭著「有坂銃」に詳細な記述があるそうです。)

 この「対談」部分は、このようなトーンで話が進められておりますが、本著作の主旨に係ることが、次のように述べられています。
「(司馬は、陸軍が)日露戦争の旅順戦を精神主義のみで勝ったから、それよりあとは、装備・技術を軽視するようになったと考えています。日露戦争・旅順攻防戦が、日本のまたは陸軍の原罪だとして、その張本人を乃木希典だと断定するわけです。」
 しかし、後述されるように、乃木であろうとだれであろうと、結局は(兵の)消耗戦しか手はなかったのだ、それが旅順の戦いであったのだ、ということが述べられています。
 また、当時の政府も軍首脳部も技術を決して軽視してはおりませんでした。乃木将軍も、あたかも詩人でしかないような印象作りがされていますが、決してそうではなく、ドイツ語もものする先進的な考えの持ち主であったようです。満州軍総司令官の大山巌は洋行したエンジニアであり、児玉源太郎よりも大砲について詳しかったということです。特に薩摩の倒幕は、西洋砲術のお陰で成ったという実績と理解が存在しており、技術を軽視するような明治の元勲はいませんでした。

 前に、武士の作法という本を読みましたが、武士というのはある意味スポーツマンであり、最後の勝利のために日々工夫と鍛錬を積む、技術職人のようなものでした。精神さえ鍛えればどうにかなるなどという思考過程はなかったと、私も思います。身体を切るか切られるかという物理現象が最後に生起するわけですから、当然「物理科学的」でなければならない訳です。
 
 ちなみに、大東亜戦争の後半に、なぜ精神主義がもてはやされるような風潮になったかというと、本来は物量で優らなければならないのは分かっているが、(大正期頃以降)国力がそれを許さないことが明白となってきたために、そちらのほう(精神面)に走っていかざるを得なかった、ということではないでしょうか。(軍事的合理性の思考過程が軍人が頭の中に最初から欠如していたとは考えられません。)

 また、著者は、司馬遼太郎の旅順攻略作戦に関する捉え方は次のような誤ったものだといっています。
「(司馬は)第1回総攻撃で、全現役師団を、新市街方面(西方)に向け、二〇三高地に穿間(せんかん)突撃をかければ、旅順を陥落させることができた、と主張しています。これは「決戦主義」であり「消耗戦主義」と対極をなします。(つまり)短期決戦を至高とする考え方です。」
 つまり、旅順攻防戦と言うのは「消耗戦」なのである、ということなのです。
この視点が非常に大事であって、それが抜けているというのです。

 このことは、本誌の章の構成がつぎのようであることを見ればよくわかります。
第1章 永久要塞など存在しない
第2章 歩兵の突撃だけが要塞を落とせる
第3章 要塞は攻略されなばならない
第4章 失敗の原因はの魏司令部だけにあるのではない
第5章 ロシア軍は消耗戦に敗れた
第6章 旅順艦隊は自沈した
第7章 軍司令官の評価はどうあるべきか

 私の理解は次のようです。
 陸戦では、敵の進攻を防ぐために、一種の城砦が作られる(保塁)。しかし、これは、いわばハードポイントであって、これを物的に破壊しえる榴弾があれば、ついには防御しきれなくなる。これに対し、敵の進攻を防ぐもう一つの方策として、塹壕がある。塹壕は保塁と異なり線であるから、兵は自由にこの中を移動し得る。また、その形状を比較的自由に変形し得る。このために、防御側にメリットが高い。
 保塁がハードポイントとすれば、塹壕はソフトであると言える。このような塹壕に潜む敵兵力を降参させるためには、榴弾等による破壊力もある程度の効果は期待できるが、致命的なものになりえない。いわば、ソフトにはソフトでしか対抗できないにということである。従って、兵による消耗戦、つまり、あたかもナメクジを塩で溶かすような、作戦しか取りえないということである。
 旅順は、いくつか作られた保塁とそれを繋ぐ塹壕によって築城されており(ブリアルモン式要塞というそうです。)、いうなれば、塹壕戦であったのだ。
 したがって、ステッセルは、食料や水などではない、まさに兵の消耗のために降参をしたのだ。
 と、こういうことだったようです。

 乃木は、それでも無能といわれるのですが、そうではない、という次のような記述があります。
<引用開始>139p
 一回の戦闘で1万5千人の損害を受けたことは、帝国陸軍史上初めての経験だった。日本の市井には戦死公報がもたらされるたびに、ある種の敗北感が広がった。この段階から、参謀本部は、この失敗を乃木司令部の無能・無策にあると主張し始めた。
 参謀本部次長長岡外史は、「鉄壁下に2万人を埋めれば(乃木司令部は)何か考えてもいはずだ」と書き残したが、その言葉はそのまま、参謀本部全体にあてはまってしかるべきだ。自分たちは西方(203高地)主攻説を、事前に主張したから免責されるというのは、本部としてあまりにも無責任と言うべきだろう。参謀本部が「早期攻略」を要求し、その結果、野戦軍は全力を挙げて戦ったのだ。司馬遼太郎はこう書いている(坂の上の雲四185p)「(軍隊は)その組織をもっとも有効に動かすものとして指揮者があり、指揮者の参謀がいる」「旅順攻撃における乃木軍の作戦首脳者が、第1軍に比べて恐るべき無能を発揮した・・」
 この戦いの12年後、第1次多年の西部戦線でそれまでの歴史上最大の、それは一日における人的な被害の意味だが、塹壕戦突破戦が発生した。
 1916年7月1日ソンム河畔、1週間24時間連続の173万発の準備射撃が実施されたあと、イギリス軍(ヘイグ)13万人は24キロ幅のドイツ軍塹壕に一斉攻撃をかけた。このときのドイツ軍陣地は「永久築城」でなはくただの3線からなる泥の塹壕だった。攻撃は失敗し、イギリス軍は一日(乃木のように5日間ではない)で戦死者1万9千24人、負傷者5万7千470人行方不明者2千53二人を出した。
 乃木は盤竜山東西保塁を奪取したが、ヘイグは寸土の獲得にも失敗した。
 この日のことを『イギリス公式戦記』は次のように評論している。
「連合国とアイルランドの最良の若者の破滅的な損失によっても最小の土地を奪うことしかできなかった。装備や戦術について改善されることは今後、あるかもしれない。しかしこのとき示されたフランスにおけるイギリス軍の訓練・士気・統制に及ぶことはあるまい。そして将校と兵士の質と精神の気高さに及ぶこともないだろう。」
 旅順の将領、参謀は無能であり、兵士は「命令のまま黙々と埋め草になって死んでゆくこの明治とういう時代の無名日本人」(坂の上の雲四181p)だったのだろうか。司馬の言葉は将軍から兵士に至るまでの使者への冒涜とも思える。旅順が落ちなかったとするならば、現代日本は果たして現在のようなものだったろうか?
<引用終>

 乃木将軍は、消耗戦を強いられ、部下将兵を投入していく訳ですが、その将兵らを単なる消耗品とみなす事は出来ず、自戒の念を強く抱いていたのではないでしょうか。武士的であろうとする自己規定の考えが強かったことに加え、このような気持ちが強く働いたことから、とやかく言われても、特に反論をすることなく、誤った乃木像ができるに任せたのではないかと思います。
 最後に、著者はこう述べます。
 「これまで人類史上で数多くの戦争が発生した。一つとして同じ戦争はない。日露戦争も当時の極東情勢と、大日本帝国の成立の関係で見るしかなく、類例があるわけではない。さまざまな戦争を説明したり、類型化したりするのは本書の範囲を越える。ただ、司馬遼太郎がかかった呪縛で日露戦争を理解することは不可能だ、というだけである。」
 司馬遼太郎の心底には、なにか深い怨念のようなものがあるように、私も思います。

 

21.4.1

使ってみたい武士の作法/並木書房/杉山頴男

 著者の杉山氏の肩書きは、雑誌「武道通信」の主宰者、となっています。
 もともとはプロレスなどの格闘技に関するジャーナリストであったようですが、いつからか日本の古流武術についての研究家として活躍をされているようです。

 この本は、武士の作法に関することを中心にして武士の姿を描きだそうとしたものです。この、武士が日常的に行なっている作法(体捌きと言った方が良いかもしれません)の拠って来るところとは、「常在戦場の精神」であるということのように、私は理解しました。武士の存在意義は、その一点にあるといってよいと思います。そして、それを意義たらしめるために、あらゆる行為や努力がそれに向かって行なわれるわけでして、そう捉えると理解しやすいように思います。

 武士の作法の中核にあるものは「刀」です。従って、この本の内容の多くは、武士の魂である「刀」に関する話題になっています。例えば、刀をさして、すっと立った場合の左手の置き場所は腰に挿した刀の鍔の付近と決まっておりまして、鯉口の部分に手を上から添えるような格好です。こうしておくことで、いつでも鯉口を切って刀が抜けるという態勢になっている訳です。

 武士と言うのは考えてみれば、直接的に世の中の役に立つような生産活動や経済活動をやるでもなく、いうなればひたすら精神世界に住み続け、世の中から超然としていたわけです。だからといって、世の中の役に立っていなかったという捉え方は、もちろん正しくありません。世の中の安定のために、いわばその要(かなめ)の役割をしっかりと果たしてきたという点、特に国難ともいえる局面では、非常に重要な存在であったといって良い訳です。まさに軍隊と同じです。
 
 また、このような、精神世界での活動(とそれに伴う身体的、技術的活動)が、長年にわたって真剣に行なわれていることが、非常に研ぎ澄まされた価値ある文化として作りあげられたという点も重要だと思われます。これは大変貴重なことでして、今後も大切にしなければならないものであると思います。また、人ひとりの生き方としても、このような武士のようでありたいものです。


 トピック的な、へーっという内容がたくさんありましたが、そのなかで、「稽古」について良いことが書いてありました。(私の道楽である蕎麦打ちにも通じる内容です。)

<引用始>
稽古とは古きを学ぶことである。新しい形を創作するのでない。古いものをどういう視点で捉えるかである。武道に勤(いそ)しむ方々は練習といわずに稽古と言うべき。仕合(試合)とは「試し合い」。流儀を超え、互いに技量を磨くためのもの。勝ち負けを決める「競技」ではない。大会に出向く選手は「きょうは勝ちたい」といわず「今日の競技は勝ちたい」というべき。いまどきの若いモンは、稽古のときから勝ち負けを競うと嘆く師範が多い。
<引用終>

 私なりに言えば、稽古とは「型」を学ぶことである、ということだと思います。そして、その稽古の段階を過ぎて、あるいは一旦離れて、創作とか自由とかいうものがある、ということでしょう。
 武道について言えば、その目的は相手を倒し得る能力の修得にあります。そのための稽古であり、一定の段階になって、最終目的達成のための創作、工夫が行われる、ということです。

 

21.3.10

日露領土紛争の根源/長瀬隆/草思社

 本来的に領土問題は簡単には進展しないものですが、私たちが抱えている領土問題を見ると、それどころか一方的に押しまくられ、現状の既成事実化が図られています。今のこの状態というのは、単に現状の領土問題だけではなく、様々な問題に波及して行き、ついには名実共に「日本自治区」とでも言われるようになることを予感をさせます。実際、樺太はそのような経緯をもってロシア領となっているのです。そして、明らかに日本はバカにされています。このことが国家間のあらゆる事案に絡んできて、あらゆることに不利益をこうむっていくといわねばなりません。このように、ただ今現在は、問題となっている領土は小さいものですが、それがはらんでいる問題点はとてつもなく大きい訳です。

 領土問題が何時までも解決しないのは、私たちの心の底に、戦後の悪しき個人主義があり、「私には直接に関係ないから」という考えがあることが大きいと思います。価値判断の際の主語が常に「私」であって「私たち」でない点が大いに問題なのです。

 さて、この北方領土に関してですが、わが国では2島返還か4島返還かという論議になっていますが、肝心のロシアにはその論議に乗る気すらないように見えます。ところが、実は、4島は勿論のことあの樺太島も実は日本の領土である、と著者はいうのです。
 あの広大な樺太も北方4島もロシアに不法奪取されたものなのです。この本を読めば、ここにも、残念ながら、「うぶでお人よしの日本」という姿がありありと浮かびあがります。
 そして、その鍵を握る人物が、シーボルトであり、チェーホフであるというのですから、この本はなんとも面白い内容になっています。

 樺太(これが日本における正規名。サハリンは他国による呼称。)が世界に紹介されたのは、オランダ人シーボルトによってでした。彼が著した書「日本」が1832年から1852年にかけて全20冊という規模で刊行されました。その第1編が「日本の地理とその発見史」というもので、そこに樺太に関して次のように記されているのです。

<引用>
 ヨーロッパで半島とみなされていたサガレンおよびサハリンなる地名の土地は、日本では樺太と呼ばれていて、それが正しい呼称であり、そしてそれは半島ではなく、島であるということであった。すなわち、その地は大陸から海峡をもって隔てられていて、その発見者は日本人間宮林蔵であり、彼によってその精確な地図が1809〜10(文化六〜七)に作成されているということだった。
<終わり>

 つまり、ロシアは、樺太は半島であり、従ってなんの問題も無く領有権があるものと認識していましたから、これに大いに関心を持ち、そしてシーボルトを介して間宮の地図を実際に見て、仰天する訳です。シーボルトの記録によるとロシアの関係当局は「これは日本人の勝ちだ(してやられた)」と叫んだとあります。
 しかし、狡猾なロシアは、この事実をひたすら隠蔽し、シーボルトの「日本」の露訳に当たっても徹底した改竄を加え、樺太が島であることを発見したこともロシアによるものであったということにしてしまいます。そしてそれが今日まで続いているわけです。(ロシアではこの「日本」という著作の存在さえも無視されました。)
 つまり、樺太の発見者=領有権者は、そもそも日本であったのです。ロシアは、地理を正しく把握しておらず、ユーラシア大陸の地続きであるから当然自分の領土であると誤認識していたのです。
 これが最初に押さえなければならない非常に大事なポイントです。

 次に、条約などでどう扱われているかを見ますと、以下のような状況になっています。

<引用>
 日露の最初の条約である1855年の下田条約(日露通好条約)では、ロシアの要求に基づいて樺太=サハリンの帰属が討議され、日露のいずれにも所属せぬ共有の地と定められた。もともとロシア人は居住せず、日本人が彼らの到着の60年以上前からその経営に着手していた土地を共有としたのであるからロシアにとっては大成功であり、日本にとっては敗北であり不平等なものであった。
<終わり>

 つまり、日本の領土である樺太が、あいまいな状態におかれた訳です。竹島や尖閣で行われているあの「一時棚上げ」と似たようなものです。日本は当時、幕末期でして、国内外ともにいわば動乱期に入っており、そのドサクサがこうなった一因といえるでしょう。この後、ロシアは、この「共有」を「併合」と看做(みな)し、軍隊と囚人を送り込み事実上の単独支配の状態を作り上げてしまします。竹島と同じです。
 そして、明治新政府が誕生したときには、樺太は実質的にロシアの占領下になってしまっておりました。あの北清事変後、ロシアが満州に浸食して領有を殆ど既成事実化したことと同じです。
 そして、なんたることか、このことが条約によって、次のように確定されてしますのです。

<引用>
 かくて、その事実を確認した条約が1875(明治八)年にぺテルスベルグで締結される。サハリンの南北全部をロシア領、下田条約でロシア領とされていた北千島−ウルップ島以北(その南は既に日本領)−を日本領としたのであった。日本の外交の敗北は明白であって、政府はそれを糊塗すべく国内では「樺太千島交換条約」という造語をもって釈明した。
<終わり>

 この辺の経緯は詳らかではありませんが、明治維新をやっとこさっとこやり遂げて、対外的な国力も充溢していない状態で、ある意味やむをえない面があったのかもしれません。一概に、弱腰とか臆面ないとか非難できないような気もします。が、しかし、やり込められたにしろ、そのことを記録として残しておくべきでした。跡形もないような形にしてしまうというのはダメです。

 そして、あのチェーホフの登場です。Wikipediaによると「桜の園」「三人姉妹」などの戯曲で有名ですが、その他にも短編小説も多数手がけております。また、ノンフィクションとして「Saghalien [or Sakhalin] Island(サハリン島)」という本を上梓しておりますが、これこそが、樺太に関するもう一つの鍵になるものです。

 チェーホフは、ロシアの監獄ともなっている樺太の地における囚人の調査ということで、下田条約から35年後の1890年、上陸、1895年にはこの「サハリン島」を単行本として刊行しています。そこには日露関係史も含まれており、後のスターリン体制に見られた「サハリンはロシア人が発見したロシアの固有の領土である」という宣伝とは180°異なる内容となっています。つまり、チェーホフは、「(サハリンの)処女探検の権利は疑いもなく日本人に属し、日本人が最初に南サハリンを領有したのである」と明瞭に述べているそうです。

 実際、この言葉は、後のソ連にとって看過できない内容でした。そこで、ソ連はその常套手段としてこれに類する文言を削除するなどの改竄を行なうのです。
 このようにして、歴史は変えられ、ロシア、ソ連の実績による固定化が図られていくのでした。

 そして、日露戦争。日本の勝利。
 日本は、ポーツマス条約によって南樺太を手に入れます。といっても、実体としては、日本のものであった樺太の南半分にに関する「失地回復」でありました。
 ソ連の歴史家(ポクロフスキー)が次のように書いています。
<引用>
 「(日本も疲弊しており、賠償金獲得についての米英の後押しもなかったことから)日本は、『俘虜扶養の報酬』としてロシアの熊の毛皮の小片で満足して、和睦しなければならなかった。こうしてロシアは、その被った敗北の痛手を、予想されたよりもはるかに安値のもので切り抜けたのである。」
<終わり>

 なんということか。
 結局、有色人種の悲哀をしっかりと舐めさせられた、ということでしょうか。
 高山正之氏の書いた「世界は腹黒い」を想起させます。

 そして最後が、大東亜戦争。
<引用>
 「(樺太は)大戦の末期、中立条約を侵犯して攻撃してきたスターリンのソ連によって奪われ、(著者(長瀬隆氏)は)引き揚げを余儀なくされた。サンフランシスコ講和条約で、日本はポッダム宣言受諾によりそこを北千島とともに放棄したが、講和条約にはソ連は参加せず、帰属は認められなかった‥」
<終わり>

 つまり、日本は樺太を放棄しましたが、その帰属については定められていないのです。
 ソ連は、終戦の年の8月9日、日ソ不可侵条約を自ら破り、8月15日の日本降伏後も手を緩めず侵攻を続け、樺太に居座ってしまいます。樺太を不法占拠したわけです。
 そして、同年9月2日、モスクワ放送は、杉のようなスターリンのメッセージを流します。
 主旨は、日本は、日露戦争で背信的攻撃をしロシアに侵略し、南樺太を奪取した。日本の略奪的行為はこれに留まらず、ノモンハンなどのソビエト領土に突入し、攻撃を繰り返した、等というもので、肝心の箇所は、「日本は(大東亜戦争で)自らを敗者と認め、無条件降伏の文書に署名した。これは南部サハリンとクリル諸島がソ連に移り、それが今日よりはソ連を大洋から切り離す手段としての、‥(中略)‥わが国防衛の基地としての役目をするようになることを意味する。」というものでした。
日露戦争も自分の都合の良いように歪曲し、樺太の領有を一方的に宣言しているわけです。

 その、サンフランシスコ講和会議の実際の状況は、
<引用>
ソ連はサンフランシスコ講和条約では、自国による領有が承認されるよう求め、採決ではそれが認められないことが判明すると、会議をボイコットして退場した。日本はポッダム宣言を受諾したことにかんがみ、南樺太と千島列島を放棄した。後者は日露戦争当時日本領に属しており、放棄しなければならないいわれはなかった。これが放棄されたのは、直後に締結されることになった日米安保条約で、アメリカがそこまで防衛する地域に入れなかったためであった。
南樺太は、ヤルタ会談でスターリンが要求し、米英側がよく調査検討せずに、口頭で同意し、それがポッダム宣言に引き継がれて、やむなく放棄された。しかし、千島列島同様それがどこの国に帰属するかは定められなかった。
<終わり>

北方4島は、確実に日本の領土です。
そして樺太は、どこの領有権も及んでいない地です。そういえば小学、中学時代の世界地図では樺太(50度以南)は白色にされていました。そういう領域なのです。そして、きたるべき領有権交渉には日本が一番近いポジションに位置していました。なぜなら、領有権を放棄させられたサンフランシスコ講和会議の議事は、本来大東亜戦争に関するものでなくてはならず、日露戦争によって確定された領土を云々する権限はなかったはずだからです。ここを出発点にして交渉が進めば、樺太は元のさやに収まるはずなのです。
 それを、ロシアが条約を破っていきなり戦争に参加し、ドサクサにまぎれて居座り続けているわけです。この点を我々はしっかり知らねばなりません。

 ところが平成13年1月にとんでもないことが起こっております。
平成21年2月17日の産経新聞「正論」への小堀桂一郎氏の論説「樺太を露領と認めたのはいつか」に次のような記述があります。

<引用>
 平成13年1月の事、日本時代の豊原市、現在サハリン州の州都になつてゐるユジノサハリンスクに、日本政府は総領事館を設置してゐる。領事館を開設したといふことは、日本政府がその地をロシア領であると認めての上であると解されるのだから、日本外務省は麻生氏の訪問に俟(ま)つまでもなく、サハリンがロシア領である事を既に認めてしまつてゐるのである。〈その帰属がロシアにあるとは認めていない〉といふ本紙の主張は、他ならぬ我が外務省によつて夙(つと)に否定されてゐる事になる。
<終り>

 つまり、国として、ロシア領であるということを認めてしまった訳です。
 その経緯については、
<引用>
 最近或る知人から工藤信彦著『わが内なる樺太』といふ論著の存在を教へられた。工藤氏は樺太生れで戦前から戦後にかけての樺太といふ島の歴史と運命を極めて着実に考察してきた人の様であるが、平成13年のサハリンでの総領事館開設(駐在事務所の昇格)事件の不条理を「樺太連盟」の機関紙で直ちに広く訴へたのに、それは政界からも学界・言論界からも何の反響も得られなかつたらしい。氏が外務省国内広報課に見解を質(ただ)したところ、返つてきた答の中に〈サハリンにおけるロシアの実効支配が長く、現在では外国人の出入りが認められ〉云々(うんぬん)との説明があつた由である。
<終り>

 つまり、国民も無関心、外務省は事なかれ、ひとりロシアが高笑いをしているということです。
 このときの外務大臣は、というと、
<引用>
 因(ちな)みに当時のイワノフ露国外相と水面下の取引をしてサハリン領事館の開設を企んだのは「従軍慰安婦」問題で国民の顔に泥を塗る罪を犯した男と同一人物である。
<終り>

 いうまでもない、あの国賊「河野洋平」その人です。

 領土問題という国家の大事について、皆が皆、無関心を決め込み、限りなく自己中心の世界を追求しているのが、今の多くの日本人の姿ではないでしょうか。日本人一人ひとりの全体像をそう決め付けているわけではありませんが、少なくとも、自分たちの生存の基盤である国家についてあまりにも無関心が過ぎる、と私ははっきっり断定します。

<参考>サンフランシスコ講和会議における吉田演説

 ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく、日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。

 過去数日にわたつてこの会議の席上若干の代表団は、この条約に対して批判と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決にあつては、すべての国を完全に満足させることは、不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも、若干の点について苦情と憂慮を感じることを否定出来ないのであります。

 この条約は公正にして史上かつて見ざる寛大なものであります。従つて日本のおかれている地位を十分承知しておりますが、敢えて数点につき全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責務と存ずるからであります。

 第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。

 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張は、承服いたしかねます。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫の北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。

 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。

 また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

 

21.2.27

 @日本人は「やさしい」のかA日本人はなぜ「さようなら」といって別れるのか/竹内整一/ちくま新書

  続けて2冊読みましたが、結論を先に書くと、なにが言いたいのか良く分かりませんでした。
題名として掲げられた「問いかけ」に対する何らかの結論が、最後の方に行くに従って分かるようになっているのだろうと思って我慢して読み進めたんですが、結局分かりませんでした。

 @の「やさしいのか」の本を手に取ったのは、日本人は良く言えば「こころ優しく」、普通に言えば「お人よしのバカ」という見方を私はしていますので、その淵源を知りたかったからです。

 また、Aの「さようなら」の本は、たまたま新聞に書評が載っており、その内容が好意的でしたので、合わせて読んでみたいという好奇心に駆られたからでした。
しかし、内容がさっぱり理解できないのです。

 内容は、古い文献を広く調査しながら、その言葉の意味を検討していくという手法がとられているのですが、読んでいて得心のいくものがなく、なにか非常に迂遠な語り掛けをされているように思えてなりませんでした。

 書き手と読み手のどちらに原因があるのかわかりませんが、後者に問題があるという答えがでることを、今、大変恐れています。
 そうはいっても、少し理解できたことがあります。

 「なぜ『さようなら』といって別れるのか」という本の方ですが、この「さようなら」という言葉使いは、世界でも特異な表現だそうです。
 別れの言葉は概ね3つに区分できるそうでして、
@Good-byeの系統‥「goog be with you」が約(つづ)まったとされ「神があなたとともにあらんことを」というもので、神の加護を願う、というものです。
Asee you again 、 再見の系統‥又会いましょう。
Bfarewell、アンニョン(安寧)ヒ、ゲセヨの系統‥お元気で。
 です。
 しかし、「さようなら」はこのいづれにも入らないので、著者は日本人の別れのあり方について考えたい、ということなのです。
 
 そこで、上に書きましたようにして、この言葉について考究されていくのですが、(はずかしながら私はほとんど理解できず、)なんとなく理解できたのは、次のような部分でした。
 「さようなら」は、語源的に言い換えるならば、「さようであるならば」「そうなければならないのなら」という捉え方ができるそうです。両者の差異についての深い解説もされているのですが、いづれにしても、「さようなら」と発するのは「古い「こと」が終わったときに、そこに立ち止まって、それを「さようであるならば」と確認し決別しながら、新しい「こと」に立ち向かおうという心の構え、傾向」が日本人にあるからだ、ということだそうです。
 その例として、日本の小中学校で行なわれる「起立、礼、着席」という礼節のありかた、あるいは電車のアナウンスと車掌の振る舞い(何時何分初何処どこ行きとアナウンスがあって、車掌の指差し確認があって、そのあと笛がピーっっとなって電車がゆっくりと出て行く‥)、さらには掛け声、囃(はや)し、などで、われわれは、「ヤァ」「ドッコイショ」「チョイト」「コリャコリャ」などと当面の事柄を進めて行く‥。と、まぁこのように「言語を発することによって、あるいは、言語の呪力に頼ることによって、ひとつひとつ処理していこうとする態度」というこでもある、と説明されています。

 私が理解できたのはこういう部分でして、この部分から説明がされていけば、もっと理解も深まったかもしれません。
 それにしても、自分自身の理解力に疑念を持たされた、貴重な2冊の本でした。

 

21.212

 昭和16年夏の敗戦/猪瀬直樹/文春文庫
 正論9月号(2008)に石破前防衛大臣と評論家の潮匡人氏との対談「我「国賊」と名指しされ―防衛大臣としての真意を語ろう」が掲載されておりまして、この中で、ご両人とも、先の大戦における開戦の判断について否定的な見方をされております。石破氏などは、大東亜戦争は「勝てないとわかっている戦争」であり、従ってそれを「始めたことの責任は激しく問われるべき」である。しかし、実際にはそれが曖昧模糊とされており、「国を敗北に導いた行為が、なぜ『死ねば皆英霊』として不問にされるのか私には理解ができ」ず、従ってA級戦犯は分祀すべきだ、という展開をされています。

 この「勝てないとわかっている戦争」であった一つの根拠としてこの「昭和16年夏の敗戦」があげられております。
 そこで、この本を手にとって、本当にそういうことなのかを考えてみることにした次第です。

 さて、この本の舞台となるのは開戦の年、昭和16年4月1日に開所した「総力戦研究所」です。建物は首相官邸の近くにありまして、開設に合わせて新築されました。
 研究所設立の目的は「国家総力戦に関する基本的調査研究を行なうと共に総力戦実施の衝に当たるべき者の教育訓練を行なう」(15.8.16閣議決定)とされていました。しかし実体は一種の学校と言って良く、官民の若手逸材を集め、一定期間(1年)の教育を行なうことに重きが置かれたようです。

 カリキュラム等にその辺のところが表れており、現在でいえば防衛研究所の課程教育がこれにもっとも近いようです。というより、防衛研究所や統合幕僚学校、陸海空の幹部学校のカリキュラムは、この総力戦研究所をモデルにして作られたのではないか、と本書を読んで感じました。
 その類似性は、研究生(以下、学生。)の構成にもみられます。学生は最終的に36名、うち、当初官僚27名(軍人5名)で、民間出身者も含まれており、いわゆる軍官民の混合です。(現在の防衛研究所一般課程は比率の違いがありますが、同じ形態です。)

 カリキュラムの概要を見ますと、内容は大きく「講義」と「演練」に分けられており、「講義」は内外識者等による座学でして、これを経て「演練」に移行するというものです。「演練」は、学生による自発的研究作業でありまして、「研究会」、「机上演習(総力戦演習)」および「課題作業」に分けられ、このうち、「机上演習」がこの課程の眼目であったものと思います。

 この机上演習で与えられた課題は「昭和16年の只今現在の情況のもとに『内外に宣布すべき青国(日本)国是及び国策』」を答申せよ、というものでした。つまり、開戦すべきか否か、勝算はどうか、というものでして、学生は模擬内閣を作って、この問題に取り組んでいくのですが、これはまさに同時期の第3次近衛内閣及び東條内閣に与えら命題と同じでありました。

 学生は、研究の成果を実際の内閣閣僚(近衛内閣)に対する発表を行ないます。
 昭和16年8月27日、28日、場所首相官邸大広間。
 発表者は、模擬内閣首班、閣僚。
 発表内容は、あいまいな表現とはなっていましたが、研究成果「緒戦の勝利は見込まれても物量において劣勢な日本の勝機はない。長期戦となり結局日本は敗れる。」を骨子としておりました。

 学生による成果発表後の所長の講評では、成果に対しては否定的な評価、すなわち、必敗との断定が避けられました。一方、発表を聞いた東條陸軍大臣は、講評として要旨「日清日露は勝てると思って戦ったのではなくやむなく立ち上がったもの。戦争には、意外裡の要素というものがあり、机上の研究とはこの点が異なる。この研究成果は口外してはならない。」と述べました。

 この発言から、既に開戦必至であり、負けると分かっている戦争(口外するなというのがそう思っていた証拠)ををやってしまった、ということに繋がるわけです。この点について、東條元首相らは後世のものたちから責められているわけですが、そう単純に責めるのも適当でないと、私には思えます。

 楽勝で勝てるという戦争はないでしょうし、必ず大なり小なりのリスクを負ってやる訳です。実際、米国は必死の戦いを行ないました。おそらく、当時でも、相当に分が悪い戦争だ、という認識はあったと思われます。(永野海軍大将の、「戦わざれば亡国、‥。戦うもまた亡国であるかも知れぬ。」など)

 しかし、当時中枢にあった人たちは、与えられた全ての環境のなかで、最善と思う判断をしたのです。つまり、「必ず負けるとは限らない(「と当時判断した」)戦争」をやったわけです。少し言いかえれば「負けるかもしれないが、踏み切らざるを得なかった戦争」をやったのです。私はそう思います。それを、後世の者たちが軽々に「負けると分かっていた」と決め付けて、当時の人たちを非難してよいのでしょうか。勿論、不手際や能力不足があったでしょう。しかし、それを非難することは出来ない、と思います。

 非難の声を上げている今の政治家だって、今国を危うくしている情勢を変えられないじゃありませんか。諸悪の根源と見られている官僚主導の政治、これなどはその気になれば政治家こそが変えられるものです。それをやったからといって死ぬこともありません。なのに、それも出来ない、そんな人たちが、責任を負って死んでいった人たちを非難するなどと、許せないではありませんか。
 また、東條元首相ら首脳の責任は確かに重いのですが彼らののみ責めるのは片手落ちという側面もあります。
 11月18日、衆議院では速やかに開戦すべきだという「国策完遂決議」が可決されました。

<引用>
 趣旨説明に立った島田俊雄代議士は、ひな壇に並ぶ東條ら閣僚に向かって、「腰が抜けたかといわんばかりの動作」(赤松秘書官)で決議文を渡し、叫んだ。
「趣旨は読んで字の如く。これは国民の総意だッ。」
<引用終わり>

 こういう空気だったのです。

 また、次のような東京裁判における東條口述書についての記述も見逃せません。
<引用>
 口述書は、対英米蘭戦争は、これらの国々の挑発が原因であり、わが国は自存自衛のため、やむを得ず開始されたもの、という主旨に貫かれていた。敗戦責任は、総理大臣にあるとして、自国民に対する責任を明確にしたが、英米蘭に対して責任を負う必要はない、とつっぱねた。
 起訴状では、昭和3年より20年までに至る間、日本の内外政策は「犯罪的軍閥」により支配され、かつ指導された、と主張していた。
(中略)
 ‥東條は、一部の非公式な軍閥が徒党を組んだ、ということではなく憲法上の問題に軍独走の素地があった、として統帥権独立について陳述した。
 「統帥行為に関するものに対しては、政府としてこれを抑制し、また指導する力は持たなかったのである。ただ単に連絡会議、御前会議等の手段によって、これとの調整を図るに過ぎなかった。しかもその調整たるや、戦争の指導の本体たる作戦用兵に触れることを許されなかったのである。‥(その結果、軍部が独走したが)日本における以上の制度の存在は、統帥が国家を戦争に指向することを抑制する機関を欠き、特にこれに対し政治的控制を加え、これを自由に駆使する期間とてはなし、とういう関係におかれた。」
 確かに起訴状にかかれた認識より、東條口述書にいう軍部独走の構造的素地が憲法問題にあるという指摘のほうが正確である。
 第二章で詳述したが、「東條なら陸軍を抑えられる」という木戸内大臣の窮余の策が東條総理大臣誕生に繋がった。が、結局その作戦は水泡に帰した。国務と統帥に二元化されたわが国の特殊な政治機構は、個人の力では克服できない仕組みになっていたのである。
<引用終わり>
やはり、私は「負けると分かっていた戦争を‥。」などと、とてもいう気になれません。

 その他、この本には、東條大将へ大命降下したときの状況(首相になる気は全くなかった)、12月1日の開戦決定の御前会議の夜の東條首相の様子(自室での慟哭)、等々、興味深い内容が分かりやすい筆致で描かれています。猪瀬直樹氏の力を改めで思います。

 なお、この総力戦研究所のモデルはイギリスにあったようで、昭和5年頃には既にRoyal Defence College として軍と政の要員養成を行なっていたようです。

 

20.11.1

トンデモ中国 真実は路地裏にあり/宮崎正弘/阪急コミュニケーションズ

 中国に関して論説する本は、近年増加しているが、湯気が立って匂いまで感じさせるのは少ないものです。その独壇場に立っているのが宮崎氏ではないでしょうか。読者にそう感じさせるのは、氏が長年にわたって中国各地を定点観測したデータの信頼性、鮮度が非常に高いからです。幅も深さも半端ではないのです。

 この本では、この数年をかけて、あの広い中国の文字通り全域を駆け巡り、過去との比較も加えながら実に厚みのあるレポートが分かりやすく開陳されております。読むと、なにしろ広い(だけの)中国ですから、移動も並大抵ではありません。飛行機が使えればよいのですが、半日工程のバスやタクシーはざらのようです。ちらちらとしか描かれていませんが、そこに充当された肉体的エネルギーたるや莫大なものがあると思います。我々が行なうパック旅行の対極に在る訳です。

 さて、内容ですが、プロローグにその総括がなされています。
 あちこちで語られている事柄ですが、氏の文章は迫力があります。(くどい?)
 プロローグは「危険がいっぱいの中国旅行」となっており、この分だけでも読めば、相変わらずの中国、これからも続くトンデモ中国、というのが良く分かります。

・激安ホテル、偽物横行
「大雪、毒入り食品、四川大地震などなどの影響で客足がとまり、数万円の一流ホテルが4千円以内で泊まれるほどのダンピングが起きており、五つ星のホテルでさえも倒産している。中国がいかに汚染されて危険であるか‥。衝撃のトップは水。10年前はペットボトルを拾ってきて川の水を汲んで売っていたが、いまや、ミネラルウオーターも水道水を入れたものが多い。」等々。
 私も数年前に中国に行ったことがあり、夏の天安門広場で、凍らせたペットボトルを手売りしていた男がいたが、あれなどまさにその類(たぐい)でしょう。衛生観念の低さに加えて徹底した自己中心の考えだから、勿論、水だけの話に留まらないわけです。こうなると、「中‥」「Chi‥」と書いてあったら、もう近寄るのさえ危険だと思いますね。これは日本中の主婦が今実施中の所作ですが、これは全く正しいわけです。

・偽札発見器が偽物だったりして
「中国では、偽物がおおっぴらに流通している。」ということで、あらゆる偽物が横行しておりますが、彼らは全くといってよいほど罪悪感はないようです。このことだけではなく、他の言動を見ても、同文同種であるなどとは絶対にいえない、日本人と180度違う人種、もう少し正確に言うと、天と地ほどの程度の差がある人種なのです。なにしろ、国中が総がかりで偽造をしています。歴史認識の話がその最たるものです。彼らには自分自身しかなく、共存共栄など発想すらないと思いますね。

・ナモモノ、半煮えは必ず食あたりする
「筆者は仕事柄、大都市ではなく辺境へ出かけることが多いので、奥地の食事にはとりわけ注意している。‥辺境ではスープもお茶も飲まない方が良い。レストランでさえスープの水は、殆どがどぶ川の水を汲んで沸騰さえすれば殺菌できると思っている。」

(続けて盗難について、)
「日本の満員電車でもスリが多いが、‥。一度(乗り物の中で)ポケットにごそごそと手が入ってきて、思いっきりひっぱたいてやったが、となりで新聞を読んでいたおっさんである。にやっと笑って立ち去った。スリも日常風景、盗られる人が馬鹿なのである。」
 中国人はずうずうしい。その延長が、スリや詐欺や殺人に繋がっていると思います。これは、個人の尊重という観念あるいは人権についての観念が希薄だからと思います。裏を返すと、自分が大事ということでして、有史以来大事にされたことがなかったということでもあります。個人のことだけでなく、国自体もそうなっています。これは、もう昵懇の間柄になるべき相手では絶対にありません。よく言われるように「あたり障りのないご挨拶だけする」に留めるべき相手なのです。これまでの歴史からもそのことはいえる訳でして、日本としてもいい加減にそういう対応に切り替えて貰いたいものです。

・夜の遊びは危険がいっぱい
 ある意味、リスキーだから夜の遊びは面白いとも言えますが、上に記したように中国については、それが桁を外れているのですね。リスキーというより、はっきりと「リスク」であるということだと思います。

 以上は、数ページのエピローグに関してなのですが、このような状況が中国国内各地の現地の実情に照らして記述されているわけです。
 中でも、強く印象に残ったのは、庶民のレベル特に奥地、辺境というようなところには反日感情というようなものは無い、ということです。それは、当然といえば当然でして、そのような場所では日常の生活に必要な情報が最優先であって、それ以外の、まして国外のことなど殆ど必要でないからです。NHKあたりが、中国のあらゆるところに日本軍の爪あとが‥といったトーンで番組を作っていますが、あれはそういう印象を持たせるための作為です。

 筆者曰く、「(長沙で)中国人の"はとバス"に紛れ込んだ。車内で「日本軍の残虐と立ち向かった若き日の毛沢東」といった類のビデオが流される。ところが乗客の誰も真剣に見ていない。ガイドが途中から私の存在に気づき「どこから来たか」と質したので「日本から」というと「それは遠方からよくいらっしゃいました」という。結局、同乗した中国人20名を含め、バス車内での反日フイルムと現実の乗り合わせた日本人とは「別次元」。中国における「反日」「愛国」とは「ヴァーチャルな観念の産物」と筆者が繰り返し言うのはこういう現場体験からである。」

 もう一つ、そうだろうな、ということを。
 南京での、ある典型的な市井のおっさんとの会話。
「世間話をしているうちに私が日本人だと分かると案の定、キッとして議論を吹っかけてきた。「日本軍は30万人、ここで中国人を殺しただろう」表情を見ると、別に責めている訳でもない。私は一言だけ答えた。「当時5万人しか南京市民はいない。どうしてそんなにたくさん殺せる?」「?」「あれは共産党の宣伝ですよ。」「あ、共産党、彼奴らが一番悪い」。これで納得なのである。」

 現に共産党の横暴振りを自分たちの実体験として目の当たりにしているわけです。なんかおかしい、ということを感じるし、それがあちらこちらで何回も続けば、そういう理解に当然至ります。ただ、残念なことに、統制が強いから、次なる行動に出にくいだけなのです。今、中国国内各地で暴動が発生している状況を見れば、その段階の突破も時間の問題かもしれません。

 中国は、本気でお付き合いする相手ではありません。
 ここ当分は、出来るだけ距離をおいて当たり障りの無いご挨拶程度にしておくべきであると思います。
 世にはびこる親中派の人たち、特に国政に携わるような人たちに認識をしてもらいたいことです。

 

20.10.1

その若き命惜しまず/三好朗/すずらん書房

 この本は、海軍報道員であった朝日新聞記者三好朗氏による、回天搭乗員慰霊のための著作です。三好氏は、昭和17年4月に第6艦隊(即ち潜水艦隊)に「配属」され、以後従軍記者として実際に潜水艦に乗り込み、潜水艦戦を戦われた訳です。そして、昭和20年には回天を使用した神潮特別攻撃隊等についての報道に専念することになります。それもただの報道ではなく、自分も実際に潜水艦に乗り組み回天搭乗員達と戦闘行動を共にしながらの報道でありました。そういうことで、出撃していく彼らの様子が彼らの遺書を中心にして、なまなましく描かれています。
 
 これは、後日談になりますが、そのような関係で、日本海軍戦没者全員の慰霊をしてある出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)に原稿と写真が奉納され、湯殿山においては、憂国碑錨地蔵尊が建立されたときの御霊代(みたましろ)になっているそうです。

 本文中には遺書や関係者の思い出の手紙などが記載されており、これはこれで興味深いものですが、中でも、著者による潜水艦戦搭乗レポートは面白いものでした。ただし、秘密保全の配慮があってか、その雰囲気が伝わると程度にと、ひょっとしたら筆を押さえながらの記述であったかもしれません。

 興味を覚えたのは、最終章の終わりの部分に、三山大愛教会管長の神林氏が出羽三山の慰霊に関することを書かれた中に、当時の(今もそうですが)軍艦の守護神をおまつりすることについての記述です。へーっというところがありますので、メモしておきます。

<引用>
 由来わが国の軍艦には、艦名にふさわしい守護神をお祭りしてあります。参考のため、巡洋艦羽黒に出羽神社の御分霊奉斎、また巡洋艦最上に月山大神奉斎について、いかに厳粛にして丁重を極めたものであったかを当時の記録によって略記して見ましょう。
 (1)巡洋艦羽黒について
  昭和4年5月10日艦長大佐原敬太郎の使者分隊長大尉船木守衛外1名来社。5月11日午前1時より出羽神社御分霊奉載宮司正六位大和田貞策星野・奥井委員祭儀に列す。慰霊祭祝詞あり。午前九時一同随神門に御奉送す。
 (2)巡洋艦最上について
  昭和10年7月25日艦長男爵鮫島貝重の使者谷主計大尉外下士1名来社。7月26日午前1時月山大神御分霊奉載。午前3時下山祝部、(ほか7名略)奉仕。宮司正六位寺田密次郎御分霊を奉載鶴岡駅発。午前4時55分急行で横須賀に向け出発。沿道町村長、軍人分会長、消防幹部その他奉送す。7月29日艦上祭寺田宮司奉仕祝詞あり。
<引用終>

 国家の命運を決することになり得る軍艦に守護神をお祭りするため、ゆかりの神社の御祭神を分霊し、それを祭る、ということです。これは、いわゆる「分祀」ということになるのでしょうか。そして、その分霊を、艦長の使者が移送するわけですが、それを地域の関係幹部が沿道で奉送するという状況なのです。

 ゆかりのある神が、守護神となって軍艦を加護する‥、そこに国民が参加している。そういう神が艦内の神棚に祭ってあるのですから、軍艦の乗り組員も、自然と力がでるでしょうし、また恥ずかしい行いは戦闘においてはもちろん普段も出来ないわけです。こういう信仰的なものは軍艦に限らず普段の生活の場でも必要と思いますね。

 ところで、今の自衛艦ではこの辺のところはどうなっているのでしょうか。

20.9.1

サダム・フセインは偉かった/高山正之/新潮社

 週刊新潮の名物コラムを本にしたものです。
  週刊新潮は他の一般の掲載記事を見てもなかなか良い内容のものがあるように思います。私の尊敬する桜井よし子さんも週刊新潮にコラムを書いていますしね。

 高山正之氏の数々の著作のうち「世界は腹黒い」を読んだ事がありますが、これも大変面白かった。白人優位で成り立っているこの世界を、歴史と現状を元にして、手際よく料理して分かりやすく見せてくれるという本でしたが、この「サダム・フセインは偉かった」も同様の内容構成になっています。氏の講演も先だって聴く機会がありましたが、これも同じように面白かったですね。

 我々が、世界の中の日本を考える時、謙虚で奥ゆかしい日本人としてはどうしても自分達の日本を低く見てしまう傾向があります。
 たとえば「世界に大きく目を見開いて‥」などという言葉使いがされることがありますが、これなどはまさに、自分達は何事にも遅れており、先行する西洋社会に遅れないようにしなければ、といった使われ方でして、この辺の心情が良く現れていると思います。

 しかし、そうではなく、ずるがしこく残酷な白人どもに、してやられないように用心深く目を見開いて対応しないといけない、というスタンスでなければならないと思いますね。この本では、そこのところが繰り返し繰り返し述べられています。

 著者は、この本の冒頭で、「本書は、世界にあふれる『正義』がいかにいい加減か、誰の身勝手で生まれたか、をテーマにした」ものであるといっておられます。そこのところを次のように言います。
<引用始め>
 1995年10月3日10時、ロス地裁の陪審員団はOJシンプソンの無罪を評決した。表決は米国の主人公である市民の名で下すから、たかが検察官がそれに異議、つまり控訴はできない。彼の無罪は確定する。
 このとき法廷の前にいた、黒人の集団は評決に歓声を上げ「Justiceは勝った」と叫んだ。「Justice」の声は津波のように地裁前広場を押し包んでいった。
 白人市民のグループもいた。彼らは破棄捨てるように「Justiceは死んだ」と言った。もう一人が「Justiceは盲いた」と言った。
 みんながそろって「Justice」を口にした。訳せば「正義」だが、意訳すると「それぞれの勝手な思い」になる。その思いの前には事実などどうでもいいことになる。
 正義を口にする者は多い。米国は先の大戦ででも正義を言った。反対に日本は邪悪だと。だから正義のために大量殺戮兵器の原爆をやむを得ず落としたと。しかし、やむを得なかったといいながら原爆の開発途中からもう京都や長崎など原爆投下候補都市を決めて、通常爆弾による空襲を禁じていた。
無傷のまま残してどれほどの破壊力をもつか正確に計測するためだった。日本が降伏してしまいそうなので急ぎ二発を落とし、結果的に京都が無傷で残ると「我々は文化財を守った」と言い出した。正義を言えばどんな嘘も許されると思っている。
 中国もいち早く正義を主張した。中国は正しくて日本は悪い、南京では30万人も虐殺したと。日本は中国近代化のために留学生を招き、軍の近代化も図ってやった。が、彼らは「強い中国」側に寝返って日本もアジア諸国も裏切った。それを隠蔽するため正義を口にし、南京事件をでっち上げてきた。
‥(中略)‥
 不倫は死刑のイスラムでは女は袋をかぶせられ、社会的には死んでいる。その不合理を正したサダム・フセインは正義を言い立てるアメリカに殺されてしまった。
<引用終>

 原爆の投下のくだりについては、ひょっとしたら私も読んだ本と同じ本を読んであられるのかもしれません。「ここ(原爆を投下するまで日本を降伏させるな)」と「ここ(京都に原爆を投下せよ)」に私の感想を書いています。

 また、この本のタイトルにもなっているフセインの件については、別章で次のように書いています。
<引用始>
(コーランにしたがって、女性を教育から遠ざけ、家に閉じ込めているのは)国家の大いなる損失になる、と宗教からの脱却を求めたのがイラクのサダム・フセインだった。
‥(中略)‥
 彼の鉄の意思はついに宗教界を黙らせ、イスラム圏にあってここだけが女性に教育と社会活動を保証するまともな国になった。
 国民の半分が生き返ったイラクは急速に国力を伸ばし、忘れていたアラブ民族意識も取り戻した。
 ただ、それが欧米には都合が悪かった。アラブ国家は頑迷固陋な宗教に浸ったまま石油さえ供給していればいい。変に民族意識をもっては困るというわけだ。
 それで、サダム・フセインは取り除かれた。重石が取れたイラクは再び宗教が全面に出てきて、宗派ごとに角突き合い、殺し合いを始めた。
 処刑台に立つ彼に「地獄へ行け」と罵る声が記録されている、死にゆく者の尊厳を平気で踏み躙る。まるで中国人みたいな民。
 こんな連中を一つにまとめてまともな国家に育てた男の偉大さを、改めて思い知らされた。
<引用終>

 ううーん、こういう見方もできるんだなぁ、という感じです。
 非道な側面もあったけれども、上のような側面もあった訳であり、トータルとしては、「サダムフセインは偉かった」ということなのですね。

 

20.8.10

日本を蝕む人々/渡部昇一・屋山太郎・八木秀次/PHP
 会社の同僚の勧めで読みました。帯に書いてある言葉が「中国・韓国に迎合する輩に騙されるな」というものです。

 では、どういう輩が危ないのかということですが、社民党や共産党側に立っていることを明らかにしたうえでの言動をとる人たちは今や絶滅危惧種に近い存在になりつつあって、世間からもそのように見られるようになりましたから、ある意味問題はありません。
 しかし、問題となるのは、外見上は保守側に立っているように見せかけて、あるいは自分自身もそういう意識を持ちつつも実は心の奥底ではそれと反対の心根を密かに持っている人たちなのです。
 つまり、世間からは、立派な保守主義の方だ、日本のために頑張って頂いているなどと見られているのですが、心底ではそうでなく実は何かと日本を貶(おとし)めることにつながる言動をとっている訳で、これが本当は大変厄介な訳です。

 そういう類(たぐい)の人たちを槍玉に挙げながら、日本(国民)を良導しようというのがこの本の趣旨なです。

 そのなかで、へーっという思いを持つのが以下のような方々です。列挙しますと、(敬称略)
猪木正道、五百旗頭真、北岡伸一、岡本行男。

 ふんふんそうだなぁ、と比較的分かりやすいのがが、
加藤紘一、本多勝一、平山郁夫、広岡知男、小林陽太郎、北城恪太郎、田中均、池田大作、古賀誠、野田毅、
 という面々です。

 中でも五百旗頭真氏は現防衛大学校校長ですのでその影響力を考えると大変なものです。
 この方については、次のような記述があります。
 五百旗頭真氏は16.5の中央公論「反中”原理主義”は有害無益である」という論考を書いています。
 この論考の書き出しは、「中国が若年層のナショナリズムの暴発とは別に、イデオロギーと対日観の呪縛を解き、その国家理性は等身大の日本を確認しようとしている。日本も反中原理主義的先入観の衣を捨てるときが来ていることに気づくだろうか。」というもので、中国に理解を示さない日本に問題があるというニュアンスになっています。
 また、「あの戦争について、私は中国はじめアジアの国々に深く申し訳なく思っている。そして、あのような外交指導、戦争指導しか出来なかった日本政府に愛国者である私は憤りを禁じえない。」と、戦争であるのに片側が一方的に悪いと言う変な見方になっているばかりでなく、自分を高みにおいて過去の出来事を一方的に断罪しています。
 また、「‥心配なのが、日本の対中感情全般が悪化した中で一部は中国の悪い面しか見えず、中国が世界とともに動き始めた変化についていけず、反中原理主義的先入観の虜になっている」と、中国の悪い面がとるに足らないような言い方をされておられるようで、どうも腑に落ちません。

 小泉首相の靖国参拝に際して「個人的・国内的理由から、靖国神社参拝を四回繰り返し、いたずらに中国内部の反日世論を呼び起こし、前向きの対日認識を中国内でリードしている者の立場を弱めている。反中主義はもはや世界的な共感を呼ぶものではなく、むしろ日本を国際的孤立へと導く危険性の高い立場と化していることを知るべきではないだろうか」と非難しています。これは、もう日本人にあらざる発言と言わねばなりません。

 教科書問題に関してもあたらしい教科書を作る会の歴史教科書に対して
 「他国のナショナリズムを思いやる心のない」「偏狭で歪んだ」「まことに手軽に自己正当化を施した安直なナショナリズム」(論座2001.7)と決め付けており、この教科書を読んですらいないと八木教授は怒っています。

 いやはや、これまで少し問題のある人だとは思っていましたがこれほどとは思いませんでした。

 ついでに榊原英資の発言も大いにおかしい。
 「僕は(首相は)靖国に参拝すべきではないと強く思っている。なぜなら、非常にぺティ(矮小)な問題な政治問題でさるからです。こんなことはどっちでもいいことなんです。だったら、一回仕切り直したらいい。中国との歴史問題だって、『白村江の戦い』からずっと戦ったり、親密になったりしているのですからね。四,五世紀までさかのぼってレビューすべきだし、戦死者に対する追悼の気持ちをどういう形であらわすのかも、白紙で考えればいい。ここまでしてどうでもいいような矮小な政治問題に、あんまり固執しないほうがいいと思いますよ。こだわっていたら、どうにもならない。」

 こういう、普段はしたり顔で発言をしている人たち、それも相当の影響力を持った人たち、が本当に危ない。
 この人たちは、自分達の乗る日本丸の沈没に向けて、その船底にそれとなく穴をあけている訳なのです。本当にどうなっているのでしょうか。

 

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