(↑次の項目へ)

←フレームを表示  ↑HOMEへ

21.3.15

講演会「蕎麦打ちと哲学」  

 さる哲学者で蕎麦打ちも、ものするという方の講演会がありましたので勇んで聞きに参りました。
お話しの前半部分には、なかなか興味のあるトピックもあったのですが、後半に入って急速に興味を失って行く思いがしまして、出来れば席を立とうかとも考えるほどでした。

 蕎麦打ちをなぜやるか、というと、一つは、講師がおっしゃるようにそのこと自体が楽しいからです。突き詰めると、そういうことであって、さらなる理由を説明しようと思ってもそれは難しいし、また、あまり必要の無いことだと思います。
ところが、その辺の部分をなにかことさらに難しく説明されようとしているのですが、分かったような分からないような結果になっているように思いました。お考えが伝わってこないのです。私の理解力不足があるのかもしれませんが、話がこの辺に来たころから、なんとなく「違うなぁ」という感じがしたわけです。

 そして、それが決定的になってきたのは、「段位」に絡めてのお話しが始まったころからでした。
私が思うに、講師は、戦後民主主義的な考えをお持ちのように思えます。戦後民主主義というのは、例えば、個人や自由というものが、団体行動やそれに伴う規律などというものよりも大事だという考え方にたって、社会や人間を見る見方をいいます。もちろん両者はバランスが取れていることが大切なのですが、戦後の日本でこのような考え方が広まり、個人や自由が強調されすぎている状況になっています。これは、戦後強調された考え方によるものです。
 最近の特徴的な例として、ゆとり教育がそれに当たります。子供にだって人権がある。何事も強制するのはいけないことだ。もっと自由(ゆとり)をもたせて、のびのびと学校生活を送らせることが大事だ。‥、等々というものです。
 教育とは強制です。子供に裁量を与えたら勉強をするはずなどありません。自明中の自明の理です。そして、そのゆとり教育の結果が、学力低下やイジメや援助交際‥です。

 少し、脱線しましたが、これを踏まえると、講師のお考えが分かるような気がします。
 「型にはまった打ち方はよくない。」というのがそれです。自由に、思ったとおりに打つのが良い、ということなのです。
その例として、次のようなお話をされました。
 ある高名な蕎麦職人(多分「達磨」)の弟子が、あちこちに出店しているが、「それらは、全て単なるコピーになっていて、感動がない(、従って美味しくない)」と(まで)言われました。
 そして、段位についてのお考えも披瀝されたのですが、「段位取得によって技術の画一化の恐れがある」という言い方をされておりました。そうであってはならず、各人の持ち味の出た打ち方をするのが大切であるということだそうです。よって、段位制度についてはそれを否定はしないが、その基準を『ふくよかな』ものに設定すべきだ、とおっしゃるわけです。

 この辺になると、私は大いに異論があります。
1 (達磨の)弟子を単なるコピーといわれますが、コピーでなにが悪いのでしょうか。達磨の味が好きな人にとっては大変にありがたいことです。また、あちこちに出店されているということは、そういう人が多数存在するということでもあるわけでして、店側もそれに応じて「商売」をしているのです。それを、いうなれば素人の分際で(というと、少し穏やかではありませんが)、あれこれ中傷するのは如何なものかと、私は思います。
 そしてまた、このことは、お話しの前段でおっしゃった、「それぞれの蕎麦打ちには、それぞれなにか良い所が必ずある。(打った人に)その点を指摘してやらなければだめだ」ということと反しているのではありませんか。

2 段位は、それ自体を目的とするものではなく、あくまで基本技術の獲得向上のためにあるものです。基本の技術が画一されて見えるのは当然です。また、洗練されて合理的になってきていますので、これも画一に見えるのかもしれません。でも、それでなにが悪いの?という感じです。
  さらに言うならば、この画一性と言うのは、江戸時代以来の伝統が生み出した非常に貴重な結果なのです。現代の我々は、それをしっかりと修得し、次の世代に引き継がねばなりません。これは、個人個人が好きなように打つこととは別次元のことなのです。
 世界に冠たる、柔道、剣道、茶道‥、およそ道のつくこれらのものは、ある種の「型」を強く要求しています。そのような約束事がなかったら、単なる、取っ組み合い、殴り合い、液体の嚥下でしかありません。つまり、ものごとには、それを表す基本的な部分、画一的な部分というのがないといけないということです。そういうものがないと、鵺(ぬえ)だらけの世界になってしまします。
 自由だけではだめなのです。そこにしっかりと裏打ちされた「規律、規則、制約‥一定の型」といったものを踏まえた上での「自由」ではなければ、それはただの放縦(行き当たりばったり)にしか過ぎません。
 あくまで、基礎をしっかりと固め、その上で得られる「自由」であるのです。
 そして、このことは芸事、技術の修得についてもはっきりといえることでして、世阿弥のいう「守破離」という言葉に、それがしっかりと言い表されております。
 段位制度というのは、私は、技術向上の方策として、大変に叶っていると思います。

3 講師は、段位認定における評価の基準を「ふくよかな」ものにせよとの提言をされましたが、「ふくよかな」とは、どういうことなのでしょうか?要は、幅を持たせろということなのでしょうが、それでは、段位という区切りを設ける以上、おのずと必要になる基準にならないのです。つまり、段位という「数値で区分」しようとするわけですから、数値的な基準が求められるのは当然なのです。
 そして、段位を厳しくし、蕎麦打ち技術を厳しく追求しようとすればするほど、厳しい基準になっていかなければなりません。もちろん、楽しくやれば良い、という考えであれば、話しは別ですが、そのようにするとすれば人間の本性に反するものとなってしまって、関心を薄れさせ、価値を低下させてしまうでしょうね。(また、蛇足ながら「ふくよかな」という用語にも私は抵抗を感じます。なぜ、幅のある、というような表現ではないのでしょうか‥。)

 配られたレジメの最後の部分<おわりに>のところでは、「技術が名人芸風であるうちは、技術は完成していない」ということを言われましたが、それは当たり前のことです。名人芸「風」であるかぎりは、なんといっても「風」なのですから、それは名人芸ではなく、完成には至っていない状態なのです。なにか、言葉使いもあいまいな感じがしましたし、具体的になにがおっしゃりたかったのでしょうか。。
 ついでに、「釜前一生」という言葉に大変感動した旨のお話しがありましたが、蕎麦に限らず、また釜前に限らず、何事もそういうものではないでしょうか。こういうお話になって来て、私は興味を失ってしましました。

■私(たち)が麦打ちに惹かれるのはなぜか?それは、第一に、そこにモノを作る喜びがあるからだと思います。更には、そのモノ作りが難しく、それを自分のものにしようとする過程が面白いからです。そしてまた、作ったものを人様が喜んでくれることに喜びを感ずるからです。私は、そう思います。
■私は、ある種の「型」は絶対に必要であると思います。それを自分のものにした後の「自由」であるべきです。そして、この「型」の修得に最適なのが、手段としての段位制度である、と考えます。
■さらに、その「型」の修得には「伝統の継承」という格別の意味があります。これは、非常に大事な点だと私は思います。

 

21.2.11

手打ち蕎麦アカデミー ; 「竹やぶ」店主阿部孝雄 

「竹やぶ」店主の阿部孝雄氏により、講演及び技術指導が行われました。

午前中講演、午後技術指導というメニューでした。いろいろな意味で大変ためになる会でした。


《講 演》

 阿部芳雄という名前は、私は全く知りませんでしたが、横に座った方の話では今をときめく蕎麦打ちのカリスマだそうです。高橋邦弘氏の方がメディア露出度の点で有名ですが、この阿部さんもなかなかのものだそうです。確かに、あとで行なわれた技術指導もなかなかユニークでためになりましたが、講演の方もなにか一つ超越したところがあって非常に面白くかつ有益であったと思います。今回、阿部さんが伝えたかったメッセージは、「こだわらず、楽しく、自分流で」ということではないかと認識しました。

 なぜそういう考え方に行き着いたか、というのが話の皮切りとして、こう語られました。
 即ち、
 阿部さんは生まれは新潟で、ご両親が非常に自由に育ててくれたそうです。育った環境はまた、自然に満ちており、人間は自然と共存し、また自らも自然体であるべきだということが身に染み付いた、ということのようです。おそらく、これがご自身の根っ子になって、今は、こうでなくてはならない、とう制約から自由になっている、ということなのでしょう。このことが、後段の技術指導のなかでも強調されました。

 阿部さんは20歳で池之端「藪そば」に入店、22歳ではいろんな経緯から独立します。自らは計らわず、という面が大きかったようです。それにしても、思い切った決断ですね。以後がむしゃらに10年。この10年が相当な苦労の期間で、お話のなかには出てきませんでいたが、相当な技術の練磨、精神の練磨などがあったのだと思われます。

 その後、たまたま1年間休業せざるを得なかったために、この間に全国の食べ歩きをされます。相当数の店を食べ歩いた中で1軒だけ感心した店があったそうです。それが、福井の「うるしや」でした。なにが良かったかというと、立ち居振る舞いが素晴らしく、内面からなにものかが出てくるようなものを感じたそうです。

ここで、阿部さんはその時の店主の「切り」の様子を実際に手刀でやって見せられましたが、2秒間隔ぐらいで包丁を落として行くような様子だったそうです。「我々は、早ければ早いほど良いと考えがちだが、そうではなくて自分にあったスピードというものがあるはずだ」というのです。確かにそれはそれで解ります、が、やはり、手早く作業するというのは、特に蕎麦の場合は重要で、商売をやろうという人なら、そうはいかないような気がします。やはり、手早くかつ正確であることを目標にしなければならないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

 また、この「うるしや」で阿部さんが感心したことが、立ち居振る舞いであって、味ではなかったのがちょっと解せませんですね。遅くても早くても、またやりかたがどうであっても、最終作品たるそばの味がどうか、という点が一番のように思います。たまたまこの講演では、触れなかったことであって、言わずもがなであったからかもしれません。

 今回行なわれた講演と技術指導のテーマは「こだわらず、楽しく、自分流で」ということだと思いましたが、気をつけなければならないのは、最初からそうであって良いということではない、ということです。芸事で言う「守破離」という観念です。阿部さんも、修行時代を含め、相当の訓練、試行錯誤をやっているのです。その上で、一定の技量に到達し、自分なりの解釈、考え方、やり方が可能になっているということだろうと思います。確かに、物事にとらわれてしまえば、そのことを単純に繰り返すだけで、疑問も生じず、自分の頭で考えることもなく、その本質を理解することもなく、したがって進歩がなくなってしまうでしょう。阿部さんの言い方でいけば、「自分なりの」蕎麦打ちに到達することはできないわけです。やはり、この阿部さんのように、好奇心向上心を旺盛にし、自分で考えて、自分流を開発し、自分が美味しいと思う蕎麦を追求していかねばならないということでしょう。

 このあと、やや断片的ですが、ご自身が向上していく中で感じたことごとを述べて行かれました。これらを聞けば、生き方が非常に一途というか生真面目な方のように思えました。「自分は、儲けようと思ったことはない」「有名になろうと思ったことはない」「こちらから宣伝をしたことはない」「うそやオーバーなことを言ったことはない」などの発言がありました。実際、ご自身の著書について、発刊後に何十回も読み返して、オーバーな点やうそがないかを確認したそうですから、これらのことは多分本当のことと思われます。自分からは計らわず自然体で一生懸命努力をして、その結果周りが認めてくれたのだ、ということだと納得した次第です。

 さて、そのいくつかの名言を以下に記します。
■ブームには乗った振りをする。本気で乗ると、人間だめになる。
■弟子は、弟子と思ったことがない。家族であり、仲間であり、ライバルである。
■茹では、大きいなべでやるというのが常識だが、私は、小さいなべでやった方が美味いと思う。蕎麦の成分が、拡散せずに、もどってくるような気がする。こだわってはいけないの例。
■わびさび、というのは人を殺すか殺さないか位のことがわかるくらいで、わかるものだ。
■松井やイチローは3割で一流といわれる。したがって、自分らも3割を満足させられれば、それでよい。と考えると、生きるのが楽になった。
■商いのコツは、温故知新。守るべきものをしっかり守って、1、2割の新しいことを加える。
■人間、「死」以外に絶対というものはない。
■蕎麦打ちのやり方に、こういう打ち方をせよというものはない。「プロができないもの」と「素人ができないもの」との中間に答えがあるような気がする。
■蕎麦打ち作業の「キモ」は「腰を中心としたバランスのとり方」である。これをマスターすれば、何十回打っても疲れない。
■好き嫌いは人それぞれ。でも結局は、「おばぁちゃんの味」に行き着く。
■具象と抽象。高橋邦弘は具象、私は抽象。私は、良寛や山頭火が目標。
■今の世、皆コピーになってしまっている。古い店はだらしなく、新しい店は意気地がない。皆、コンビニのようだ。
■高い蕎麦、安い蕎麦、皆同じ。どの層をのお客を満足させようとしているのか、だ。
■経験上、必ずしも三立てがベストとは言えない。挽き立ては味や香りがあっちこっちバラバラでバランスに欠ける。茹で立てよりもひと水ふた水切れたところが美味しい。茹で過ぎは恥にならない。コシとは一般に硬さを言うが、そうではない。それは生煮えだ。


《技術指導》

 昼食をはさんで、8人×2組の16人のアマチュアが蕎麦を打ち、それを順次技術指導。
 私は、阿部さんの後ろにしつこくついて回ったが、いろいろと面白いことが聞けました。

■全般を通じ、腰の動きが大事。(腰がどっしりと構えているのではなく、リズムをとって軽く動いている感じ。極端には、切りの段階においても、左腰を打ち台に当てることなく、包丁の動きに合わせて動かす感じ。)

諸動作は、パッパ、パッパとやる。(ただし、こせこせではない。延しの動作(スパン)は大きく行なうが、動き(スピード)はパッパ、パッパ と。)
作業は、目の下で。延しも、練りも。練りについては、「目の下」だから、鉢の手前部分で行なうことになる。)
■生地を巻き棒に半分巻いて、手前に引き寄せる際、下に空気を入れてやると切れたりすることがない。
■粉振りは、軽くグーを作って、指の間から粉を出す。真上からぱらぱらと落とすのではなく、遠くへ向けて低伸さす。
■水回しの後の、まとめと練りでは、まとめる際に最初の一回で粘りをつける如く、左右の手を使って鉢に対して交互に摺りこむ感じ。(左右交互にやるのは、かっこいいから、だそうです。この時はかなり力が入っており体全体をのびきらせている。他の蕎麦やでもこれをやっていたのを見たことがある。)
 こうすれば、あとは軽くまとめていけば良い。練りに余り時間ををかけると熱を持ち、切れやすい。特に生粉の場合はそうである。練り込みすぎは良くない。(確かに、高橋邦弘にしろプロのやり方を見ると、練りの動作はしゃかりきでは決してなく、むしろふんわりと扱ってるように見える(実際は所要の力が加えられている。))
■切りの際の包丁に対する目線は、包丁の背の方向にあり、観察しているのはその包丁の左右だ、と若い頃は教えられた。
■練りの段階で、水回しの加水不足の場合の処置として、「湯あわせ」というのをやる。熱い湯を手でひたひたとついけてやればある程度カバーできる。
■水回しのまとめて行く段階で、手や鉢をきれいにするという着意も必要。手をきれいにするには、片方の手の背側と他方の手の腹側をすり合わせれば良い。
■星は無くさないと、茹での際にそこから切れやすい。
■延しの際の手さばきの基本は、ハの字型の動き。手前左右から、前方中央に向けて突き出していく動き。手を円形に回転させるやり方は基本としては「?」である。
■棒は、これまたパッパパッパと動かす(振り回す)。手前に持ってくるときは、転がしてやるのも一法。
■縁辺部に波打っている部分が発生した場合、その上に麺棒を転がしてやれば、比較的簡単にきれいに治まる。
形状の成形。早いうち(厚みのまだ十分にあるうち)に処置しないと、薄くなってからは出来ませんっ!
丸延しの段階から、正円、均等厚で作り、これを維持していくことが肝要。
麺棒さばきはこせこせしてはだめ、局所最適化されて全体のバランスがだめになる。

21.2.11

焼き判の作成

 判の材料は、厚み1cm、直径2cmの真鍮の棒です。(写真では、2枚の板に挟まれています。厳密には、この真鍮棒を針金で縛り、その針金を板で挟んでいます。(下の写真参照))

 写真の右側はミニルーターです。
 ルータービットは、ステンレスですが、金属用ということでハンズに売っていました。価格は100円程度でしたので、大丈夫かなぁと思ったのですが、「ドイツ製」と銘打ってありましたので、それを信用して買い求めました。

 結果は上々、さすがドイツ製でした。

 写真は、概ね彫り終えた状態です。


 彫り終えて、印肉でためしをやって、修正を加えて、彫りの作業の完成です。

 今度は、それを縦に取り付けて炎で焼くわけですが、高温すぎると溶けて変形する恐れがありますので、バーナーなどではなく、家庭用のガスコンロを用います。

 写真は、準備完了状態ですがピントが根元に合ってしましました。


 こんな字体です。
 私がいつも書いている文字の形を活かしました。

 世界に一つです。


 ついでに、ほぼ完成した新しい小間板を掲載します。

 本体は、厚さ5mmのヒノキ、枕はケヤキです。

 枕の部分のみ漆を塗っています。
 漆が塗ってあると、明らかに粉が付きにくいようです。

21.2.10

漆塗り麺棒ほかの作成(3)

 漆を塗り始めました。
 麺棒に漆を塗ると、綺麗になって粉離れが良くなりますが、ねっとり感がでて、転がりが悪くなります。これは延し棒では、致命的です。

 ただし、重ね塗りをしなければ、木鉢の時に経験しましたが、わりとさらさら感が残りますので、なんとかいいかなと思ってます。

 それでも問題があれば、やすりをかけて表面を少し荒らしてやればいいのではないかと思います。

 やってみないとわかりません。(ので、全部塗るんじゃなかった。)
 


 作業効率を良くするために、麺棒の端に極細の釘を打って、宙ぶらりんに出来るような治具を作りました。

 これでいけば、一挙に1回を塗り終えます。


 おまけ。
 ついでに、古くなった汁椀と菓子鉢(と小間板)に漆を塗ることにしました。

 汁椀は、平成7年に部下の結婚式の引き出物で頂いたものですから、14年前のものです。口縁(こうえん)の部分は完全に漆が剥げていました。
 (写真は、漆を1回塗った後です。)

 ぴかぴかにしてやろうと思います。

21.2.1

漆塗り麺棒ほかの作成(2)

 柿渋を塗って磨き終わった麺棒です。

 上から3本目と4本目は長さ90センチの延し棒です。良く見ると左右が少し色が薄くなっていますが、両端から15cmの部分で柿渋の塗り回数を加減しました。これで、中央部分に60cmのめやすが出来る訳です。

 生地を丸延しした状態で、直径を概ね60cm程度とする必要がありますから、このめやすを元にして作業を進めればよいわけです。

 60cmは意外と大きいです麺棒に線を描き入れても良かったのですが、それでは芸がないので、少し凝ってみました。


 駒板の材料です。
 厚さ5o、幅10cm、長さ90cmのヒノキの板です。

 前回はアガチスという洋材を使いました。
 幅広の一枚板で丁度いいサイズがありましたのでそのときはそれを使いました。現在愛用中です。このアガチスというのは、年輪がほとんど無くて加工も大変容易でした。

 今回は、ヒノキで良い材料がありましたので、これを張り合わせて(専門用語で「接(は)ぐ」といいます。)加工することにしました。
 接ぐことでよいのは、年輪の方向を互い違いにすることにより、「そり」を防ぐことができるということです。

 実際は、駒板には枕とそり止めを付けますから、そんなに代わらないと思いますが、専門家の木工屋さんはそういっておられました。

 


 約30cmの長さの板が3枚とれましたので、そのうちの1枚を2つに割いて、その片割れを反り防止用の板(なんか名前がありますが、失念)にしました。

 次の作業の目標は、これらを隙間なしにぴったりと接ぐことです。


 今回は「接ぐ」際の治具を準備しました。
 通常は「はたがね」という道具を使うのですが、それを持ってないものですから(高価です)、写真のような治具を作りました。

 1回目の使用ということもあってか、平面が面一(つらいち)にならず、若干の段差が出来てしまい、あまり上手くいきませんでした。

 原因の一つは、接着剤にもあるようです。
 今回、接着剤は「速乾性」のものを使用していますが、あまりにも乾燥が速いためにちょっとした位置ずらしなどがスムーズにいかず、あれこれやっていると固まってしまう、という状況があります。

 急ぐ必要はない作業ですから、こういう場合は普通の接着剤のほうが適当のようです。


麺棒置きの途中経過です。
 なんだか、マツタケのよう、ちょっと情けない姿になっています。鑿(のみ)などを使って少し成形した状況です。
左右の少し濃い茶色になっている部分は前の材料に塗ってあったニスの部分です。これらも削り取りながらもう少し格好をつけていきたいと思います。

21.1.18

漆塗り麺棒と麺棒台の作成(1)

 麺棒が必要になったからというのではなく、漆で塗った麺棒を持ちたくなったので、麺棒を作ることにしました。作業は、昨年末から始めていまして、写真は概ね削り終わった麺棒です。(麺棒の作り方などは、前の日記を見てください。)

 右から、108cm、90cm、72cm、67cmです。
 巻き棒は通常110cmですが、ちょっと長いので、心持ち短めに、百八つにしました。
 短い麺棒の長さについては、特に意味はありません。使ってみて更に小さくするか、人にあげようと思います。

 こだわったのは、太さでして直径30mm+あると思います。延し棒は少し太めのほうが使いやすいと思うからです。
 また、巻き棒については、通常はやや細身にするのですが、その理由が良く分かりませんし、延し棒のような使い方をする場面もありますから、今回は全部同じ、太めの径にしました。

 材料は、全てエゾ松です。
 木目が詰まっていませんので、比較的軽いです。
 逆に、木目が広めですから、その分傷つきやすく、消耗しやすいものと思われます。
 そこで、柿渋等で塗装をし、漆を塗れば多少は(少なくとも表面近くの)硬度が増して良いのではないか、と考えたわけです。つまり、軽くて強くて、しなりも適度、ということを今回狙ったわけです。

 写真は、成型を終了し柿渋を塗った状態です。


 成型に当たっては、紙やすりが大活躍するのですが、単に紙やすりを丸めて削ると良くありません。
 
 こうすると、いわば手で直接に麺棒の肌を握り締めるような格好になるわけですから、直線が出ない恐れがあります。

 また、今回の場合、特に顕著だったのですが、手の肉が棒の年輪の柔らかい部分に強く当たって、その柔らかい部分だけが多く削り取られるということが生起します。つまり、年輪に沿って凸凹が出来るわけです。

 これを防止するために、「ガイド」が必要になります。
 写真のような、型紙の筒(ハンズの梱包材料で売っています。)に背割りを入れて、紙やすりを押さえ込むようにして削るわけです。

 番手を徐々に上げて行けば、400番くらいでツルツル、800番でピカピカになります。

 柿渋です。
 無臭柿渋という製品です。木鉢作りの際にも使用して、大変良いと思いました。

 時間をおいて何回か塗っては拭き取り、塗っては拭き取りを繰り返します。

 塗った直後は、木材は薄い色をしていますが、時間(数日)が経つと、茶色が濃くなります。また、布で磨くとツルツルになります。
 これに、漆を塗ると、漆との親和性もあり、塗布も効果的ですし、漆の量も少なくて済みます。

 あわせて麺棒を置く台を作ることにしました。

 幅15cm、4cm角のブロック材です。
 材料は、花瓶敷きか何かに使っていたもの(右下写真)で、そこらにあったものです。それを3枚におろして?両側をつかうことにしました。

 これの上部と下部を削って、どちら側でも使えるようにしようと考えています。


20.12.15

達磨の会(高橋邦弘)

 なんたる幸運。
 拙宅のお向かいさんが、かの高橋邦弘氏と知り合いということで、そのツテで「達磨の会」という蕎麦の会に行って参りました。
 「達磨の会」というのは、高橋氏主催の謝恩会というべきもののようでして、毎年こうして開催されているようです。
 会費は3500円、お通し、お酒、ざる3枚です。私などにとっては破格の安さです。

 写真は、会場の玄関先ロビーに設(しつら)えられた蕎麦打ち台で行われているデモンストレーションです。
 時間がありましたので、延しから切りまでの作業をたっぷりと見させていただきました。
 私は、氏のデモDVDを時おり眺めていますが、その内容と(あたりまえですが)ほぼ同じでした。
 違っているのは、手順が少し省かれていた点ででして、そのことをご本人に正しましたら、「今日の蕎麦は、『手抜き蕎麦』だ。」とのことでした。DVDは教科書、実戦は別、ということなのでしょう。
 包丁が、切り板の上に落ちる時の音をよーく聞くと刃先が少し早く着地する音が聞こえるような気がしたので、氏にその旨聞きましたら、少しむっとしたような感じで「皆には水平に入っていくように教えているのだがねぇ、」というような答えでした。そういわれて、もう一度耳を澄ますと、ほとんど同時といって良いようです。いずれにせよ、目標は水平に切り込んでいく、ということなのですね。


 小間板です。
 まず目につくのが、4箇所のくぼみ。指で押さえた跡です。
 まぁ、年がら年中こすっている訳ですから、こうもなるでしょう。よーく見ますと、手前の縁に包丁で出来たと思われるようなキズがあったり、欠けがあったりすごいことになっています。刀傷が一杯ついた戦国武士の鎧のようなものです。板はさわらのような感じでしたが、板材自体も柔らかい(軽い)ということなのだと思われます。

 枕は、高さ1センチ程度。上の写真を見ても分かりますが、枕の側面をガイドにして包丁を垂直に打ち下ろすなどということは考えてなく、平面上に平行線を出せられれば良い、ということのようです。包丁は、斜めに入っています。

 切り終わったあと、後に立っている弟子が包丁を受け取って綺麗に拭き取り、台の左手に置きます。
 包丁に氏の姿が映っています。
 包丁の厚みが、手元に行くに従い厚くなっています。

 小間板の枕の側面が内側に傾いていますが、これは、使っているうちに削れたからで、最初は垂直になっていたということのようです。使っているうちに少しづつ削れて最適の角度になって、ある角度で一定値に落ち着いたということで、これ以上の良い状況はありません。

 席について最初に出されたお通し。
 豆腐は、京都から持ってきたそうです。(氏は、広島から専用のバスで移動していますので、途中京都でお買い物をしてこられたのかもしれません。)
 手前の小皿に入っているのは、蕎麦味噌。
 江戸味噌ではない、普通の味噌が使ってあります。中に、丸抜きを炒ったものが入っています。これをナメながら、蕎麦ができるまでちびりちびりとやるわけですね。
 酒も、癖のない、とてもいい酒でした。
 名前を聞くのを失念しました。

 この段階から、高橋氏が強力にコントロールしているのだと思われますが、その辺のことを色々と聞きたいと思いました。次回はそうしようと思います。(もう既に、来年のことが楽しみになりました。)


 メインディッシュの"もり"です。
 蕎麦粉は私も使っている、常陸秋蕎麦ですが、出来上がりが大分違います。
 まず、色がやや色白です。同じ種類でも、挽き込みが少なくなるようにしているのでしょうか。
 歯ざわりは、少し柔らかめで、極端にいうとのびる手前のような感じです。ただし、腰は適度にあります。また、角がしっかり残っていてのど越しの良い仕上がりになっています。
 釜の作業をしている人に聞くと、茹で時間は45秒だそうで、思ったよりも短めです。
 このことで、上のような状態になっているのでしょうか。短いと歯ぬかりのする嫌な蕎麦になりますが、そのぎりぎり手前にしているのかもしれません。
 これはまた、そばの太さがやや細め傾向で、なおかつ均一に仕上がっているという点も大事なポイントになっているのかもしれません。
 まさに、好みなのでしょうが、これはこれでなかなかいける味でした。


 鉢の作業は、内台の左サイドで弟子がやっていました。
 これも作業の流れは、DVDと全く同じでして、手先だけ見ているとまるで高橋氏本人がやっているようです。(その旨を、この方に言ったら、うれしそうにしていました。)

 割合は、蕎麦1.3k、小麦粉0.2kですから、いつも私達がやっている1.5k玉ということになります。作業としては、このくらいがやりやすいということだろうと思います。

 木鉢は、高橋氏のものです。
 私も、木鉢を自作しましたが、内側の形状はこの高橋モデルを参考にし、ほぼ同じ形状にしました。

 こねの手さばきが一種独特でして、"あわび"のような形にしながらこねて行きます。DVDでは力の入れ方が分かりにくかったのですが、実際を見てなんとなく分かりました。一見すると右手だけしか力が入っていないように見えますが、両手にしっかり力が入っていました。
 また、中心部まで力が及んでいないように見えるのでその点を聞いて見ますと、外側面を回しこむように練りこんでいくので問題ないとの答えでした。たぶん、高橋氏もそう教えているのだと思います。


 延しの作業です。
 全般にそうですが、とにかく作業が早い。地延しから切り終わりまで15分か20分の感じです。
 通常の私達が行う作業では、厚さの均一を図るため、生地を180度ひっくり返えす工程がいくつかあるのですが、その作業はほぼありません。
 また、印象的な言葉でしたが、丸延しの段階で棒を動かしているのは、「棒を転がしながら厚いところを探しているのだ」ということでして、目視と組み合わせてそういうことをやっているのですね。私ごときにほらを吹くわけはありませんから、実際そうなのでしょう。感を研ぎ澄ませばできそうな気がします。

 麺棒は、3本。私が麺棒をじっと見ていると、良く質問を受けられるのでしょう、問わず語りに「延し棒はいちい、巻き棒は松」などと言ってくれました。
 麺棒は、いずれも両端の10cmくらいがテーパーがかかって細くなっていましたので、わざとそのようにしているのか、と問うと「使っているうちに削れた」のだそうです。小間板のみでなく、麺棒も相当の年季が入っています。
 また、麺棒の長さは3本ともほぼ同じ長さで、100cmほどでした。

 蕎麦打ち界のカリスマ、プロ中のプロともいえる、高橋邦弘の作業を間近にゆっくりと観察でき、会話もし、教えも頂き、いやはや至福の時でした。他の人は、食べるために来ているわけでして、私のようにずっと傍に立っている人はおらず、「じっと見られて、あちこちに穴があきそうだ。」といわれてしまいました。
 細かい点はさておき、全体的な雰囲気を感じ取ることが出来たわけでして、大変に有意義な蕎麦の会でありました。
 来年も是非参加させていただき、もう少し専門的なことを色々と伺いたいと、今から少しそわそわしてしまいます。

 

←フレームを表示  ↑HOMEへ

20.10.13

切りと雑念の関係

 今日は、体育の日でした。
 テレビでは、北京オリンピックの舞台裏や、検証番組をながしておりました。
 そのなかで、精神(プレッシャー)の問題を扱った番組が大変興味深いものでした。

 男子100mにパウエルというジャマイカの選手がいます。これまで好成績を残し、北京では優勝の声が高かったのですが、結局ライバルに負け、3位に終わってしまいます。
 このテレビ番組では、それの原因にせまろうという訳なのですが、要はライバルを意識しすぎ、邪心が生じたからである、というものでした。

 では、その邪心がなぜ筋力に影響を及ぼすのか、という点ですが、次のように説明されました。
 徒競走は、主として手足を交互に動かし、移動スピードを競うのですが、この手足の前後運動はその命令が脊髄から出されております。すなわち、特に短距離などの瞬発的運動では、脳のコントロールは行われず、いわば機械的な脊髄からの信号に応じて、手足の前後に配置された筋肉が、一定間隔で交互に伸縮を繰り返すわけです。ここで、この「一定間隔で交互に」というのがポイントになります。
 平穏な精神状態では、脳から特別な信号は出ることが無く、脊髄からの「一定間隔で交互に」出される信号だけで体が動くのですが、「邪心」などがあると、それがこの「一定間隔で交互」の信号に対して不規な信号として乗って来、リズミカルな筋肉運動に齟齬をきたす、ということなのだそうです。筋肉を延ばすべき時に、あたかも収縮に相当する信号が到来するがごとき状況が発生し、正常な動きが出来なくなり、従ってスムーズな動きがとれなくなる、ということです。
 100m男子決勝のスロービデオを見ると、確かにパウエルの動きがスムーズでありません。変に手に力が入っているのです。彼らは、ぎりぎりのところで戦っていますから、ごくわずかな異変が大きな差になって現れるのです。

 緊張したり、あがったり、人の眼を意識すると本来の力が出ませんが、それは、こういうところに原因があるのですね。


 

 

 

 北京オリンピック100m男子決勝。
 右;パウエル、3位。
 左;ライバル、ゲイ(アメリカ)、優勝。



 それで、蕎麦における「切り」の段階の包丁さばき、についてです。
 
 なかなか一定にうまく切り進めないのは、第1は基礎術力が不十分ということが考えられますが、一定の技術を習得した人でも、試験官など人の目を気にするなど、いわゆる色気を出すと急にメタメタになるものです。これは、まさに、「一定間隔で交互に」律動さすべき筋肉への制御信号に対して、脳からの不必要な信号が混入されるからでしょう。

 名人の域の方は、話をしながら、あるいはよそ見しながらでも綺麗に切れますので、いうなれば脊髄で切り進んでいるといって良いでしょう。こういう方は、パウエルのような状況に陥らないような精神力の鍛錬が必要になるでしょう。
 一方我々レベルは、一切り、一切りを目で見て脳で判断して作業していますから、ちょっとした刺激でメタメタになってしまいます。したがって、このパウエルの話から我々が参考にすべきは、普段の訓練において、いうなれば脊髄の信号で切り進んでいけるように、なるように、ということだろうと思います。


 そのために、大事なのが、動きを単純なものにするということでして、手首を固定し、肩とひじをヒンジとして前腕と上腕をスムースに前後させるという点です。
 手首は自由に動くので、使い易さからつい使ってしまいたくなるのですが、それゆえに乱れのもとになると言う訳です。
 ゴルフと同じです。


 「切り」の姿勢。
 
 体全体が自然な立ち姿になっています。

 まず、包丁を麺帯と小間板の枕に良くあわせ、前腕と上腕を包丁の線に合わせる。(ゴルフの「アドレス」)
 次に足の位置と体の位置をセットします。(ゴルフの「スタンス」)
 包丁を枕に良くあわせて、端を切ります。(ゴルフの「素振り」)
 あとは、手首でこね回したりせずに素直に打ち下ろす、というのもゴルフと同じです。 

体が、右45°を向いているのは、切りを行っている部分に目を向けやすいからだと、思います。


 最後の部分を切っているところです。

 小間板が斜めになっています。
 左手の押さえは、比較的端のほうです。
 この段階になると、リズムで切るのではなく、目で切る、ということだそうです。

20.10.12

体重を使うということ

 当さいたま蕎麦打ち倶楽部の会長(アマチュア蕎麦打ち五段;全国で8人)の解説付きデモをしっかり見せていただきました。
 これまでにあまり意識していなかった体重の使い方について、再認識しました。
 知識としては持っていましたが、実地の指導も得て、今回感得致しました。


 表題とは直接関係ありませんが、水回しの勘所です。
 私自身、このフェーズはしっかり意識をして全体が回るようにしているつもりですが、この時の指導でポイントとされたのは、写真の右手のように鉢の壁付近を大きく動かすというものです。
 こうせずに、中心付近を回すと外周部分の動きが少なくなるが、こう(写真のように)すると、内側も含めて粉の動きがでる、すなわち全体が動き易い、ということです。

 


 捏ねの動作の状況です。
 玉を手前から前方へ、捏ねて行くようにし、体重をそれにあわせて大きく前方へ移動していく、というものです。
 玉全体をつぶすような力の加わり方になります。こうすることで、玉の内側の水分が外に出やすくなるという説明でした。
 たしかに、底面がすぐに綺麗になります。

 これを、ゆっくりとリズムカルに行うことで、見た目も美しい姿になります。


 地のし、です。
 ポイントは、手のひら全体を生地に接するようにする、という点です。

 私は、片手の親指の付け根部分を使って、小幅で押していけば良い、と考えていましたが、左手で右手を押さえることで、右手の下側が一様に平面になるということと、体重をかけることで力が大きく加わりますから、効率が良くなります。

 確かに、プロもそうしています。


 丸出し、の前段の"バイバイの手"で延しているところです。

 この際も、体重を掛けるというのがポイントです。腕を伸ばして、体重を良く伝えることが大切です。力が大きく加わるようになりますから、延される量も大きくなります。

 ここでの目標は、厚さの均一。常に厚みに気を配る。Φ=4、50cmまで。

 私は、腕先だけで押していました。


 角だしの1回目です。
 
 ここでのポイントは手のひらでしっかり圧しながら大きく転がしていく、ということです。

 また、一回目は真ん中部分を、両手の親指をそろえるようにして、押していきます。

 作業と途中に半分広げた状態を作為し、形状を良く観察することが大事です。

 私は、小刻みに押すほうが、大きく押すよりも一様な厚みになつと考えていましたが、指導はそうではありませんでいた。
 実際に、どのような力の加わり方がするのか、検証が必要です。

 1回目の角だしが終わったところです。

 見事な楕円。

 2回目を巻くのですが、その際に手前(巻いた時に内側になる部分)に打ち粉を少し撒いておくことが必要です。 


 本延しに入るところです。
 本延しは、延したい方を前方において実施します。写真の面が終わったら、180°変換して巻いている部分を実施して、完成。
 たたみ終わって、切り始めまでが25分(残り15分)にすることが理想です。

 理想的な形状をしています。

 この時の延し棒の使い方として、比較的大きな力が上から加えられているように見えました。

 写真で見ると、体がオーバーハングしているように見えます。ここでも、体重が利用されている?


 そのほかメモ:
■1回目の水投入量、50%。水に指が触れないように、粉をかぶせるように。粉でなく水を回す感じ。
■2回目の加水でほぼOKを狙って投入。水回し時間は手短に。3回目でCOMPさす。玉まで6、7分。
■菊練は玉を左に回すほうがきれいに出来る?玉完成まで12分。
■肉分けは、中心部分(最も薄い部分)が基準となる。まず、手前を手前方向に出して底辺を概ね横一線にする。その後左右の辺を延し麺線の位置(切り幅)を決定する。(以後は、上下に延ばす作業になる。)
■巻き延しは、切り幅が広がらないように、まず左右の辺に手を当てて、転がしながら、その手が中心部へ移動するような動きにする。巻き延しは両方から実施する。巻き延しは、マクロに平にできるという点と効率が良いという点が優れる。この工程で、概ね所望の厚さにする。

 

←フレームを表示  ↑HOMEへ 

 

(↓次の項目へ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO